中核部品としてのゲームマスタ


ぼくは部品から考えるようにしています。結論からいうと、GMという部品こそが、TRPGの核だと考えています。
腑に落ちた。


なるほど、そう言えばそうだ。いや、ある意味自明過ぎて見落としていたというか。
RPGから様々な要素を取り除いてみたり、他のゲームとの境界線を模索したりはしていたのだが、このアプローチは巧く行かなかった。
ロールプレイは様々なゲームに片鱗を見て取れる。コンピュータゲームでもゲームとしての本質的な部分とはあまり関係ないのにロールプレイ的なプレイが可能であったり、ボードゲームなどでもプレイ中に「登場人物としての台詞」が出るようなことは珍しくない。中にはLast Night on Earthのように一人1キャラを担当する非常にロールプレイングなものもある。
では「プレイヤーがストーリーを作る」要素は?選択肢を選んでストーリーを読み進めるアドヴェンチャーゲームだってプレイヤーの介在によりストーリーが作られるとは言えるし、選択肢がなく行動を自分で考え入力するものだってある。予め用意されているのが駄目なら、カードを並べて話を継いでゆくゲームすら存在する(これはこれでRPGとはまったく別……というかゲームと呼んでよいものか悩むものがあるが)。
「成長」なんてのはコンピュータRPGでは必須要素であるかのように扱われているが、実のところまったく無関係だ。ことにTRPGでは1回限りのセッション割合が非常に高く、成長要素に意味がないが、それでもRPGは充分に成立している。
いや、それを言ってしまえばゲームマスタだってRPGから排除不可能というわけではない。シナリオのランダム生成は可能だし、それが状況に応じて解決すべき障害や取り得る行動を示せるものであれば、プレイヤーだけで無限にゲームすることもできることはできる。でも多分、それは既にボードゲームなのであってRPGではない。


ずっと「ゲームの中核が一人の恣意的な運用に占められているのが気に入らない」と思っていたのだが、言うなればそれこそがRPGなのだ。合議制でも、ルールと乱数で決まるものでもない。一人で物語の骨子を考え一人でそれを運用する。然れどもゲームマスタとはゲーム側の部品であり、それだけでは完結しない。その恣意的な部品を「運用」して物語を作ろうとする別のプレイヤーが必要になる。


つまるところRPGというのは「GM対PL」の遊びというわけだ。表面的な妨害の構図だけでなく、ある意味ではどちらが主導権を握るかの闘いでもある。面白いことにゲーム内ヒエラルキーだけ見れば明らかにGM>PLなのだが、ゲーム外構図まで含めると監督兼脚本であるGMに対し役者兼観客であるPLはヒエラルキーの上下に、つまりPL>GM=GM>PCという構成を取っており、メタな均衡が保たれている。


ただ、そうなると難しいのが「GMの負担軽減」という課題だ。なにしろ監督兼脚本(いや一応両者は分離可能だが)、事前の準備も当日の差配も嫌が応にも責任重大ではある。これを軽減する試みのひとつ、大胆にもシチュエーションを限定することで準備をざっくり簡略化したのが例えばまよキンであり、情報収集を簡略化して運営の軽減と時間の短縮を目指したのがサタスペ、またハンドアウトによる方向性指示のみで演出をプレイヤーに丸投げ(というと語弊があるが)したのがシノビガミか。いずれ劣らぬ素晴らしいゲームながら、かなりピーキーで人を選ぶ感もある。いや大好きですが。