「食育」と呼ぶのを止めよう

ただ今はてなで絶賛物議中の「食育」の話。


ごくごく基本的な話として、「子供にちゃんとした食事を与えよう」というのに否やはない。ただ、この「ちゃんとした」というのがあまりに漠然としているためにどうにでも解釈可能で、その結果なんだか変なものまで引き寄せてしまっているように思われるのだ。
食育の重要さがよくわかる「ジェイミーのスクールディナー」 - 花見川の日記なんかを読むと、食育というものがどういう状況で出てきているのか、つまりどれほど食が疎かにされてきたのかがよく判る。逆に言えば、日本ではこれほど酷い状態になっていないからどうも実感がないということでもあるのだが。
そんな状態で「食育」という言葉を打ち出したのは早計に過ぎたのかも知れない。結果として日本に於ける「食育」には本来と違った意味が色々付加されてしまった。


食育の基本は「色々な美味しさを知れ」だと思う。人間、味覚に関しては意外なほど保守的で、食べ慣れないものはなかなか受け付けない。まあこれが昆虫食みたいな、あるい意味生理的な嫌悪感なんかと結び付いちゃってるものについては「文化の違い」と割り切るにせよ、先の英国の子供たちなどはそれこそ1年中フィッシュ&チップスしか食べないようなレベルの偏りを見せていて、これは土着文化レベルを超越した偏食だ。
こういうのを、先入観のない幼少期からなるべく偏った食事にならないように気を付けてゆくことで食べられる範囲を可能な限り広げよう、というのが食育の根幹。
つまり本来の「食育」とは、"食事の教育"なのだ。


ところが「食育」という単語からは「教える」という意味が抜け落ちている。ためにこの言葉、いつの間にか「食で育てる」みたいな捉え方になってしまった*1。でも上述の通り、「食で育てる」ではなくあくまで「食事を教育する」なのだ。ここを取り違えたことから、「食育」はややこしいことになってしまった。
現在の「食育」には少なからず、"母親が" "愛情込めて作った食事で" "日本文化に則った食品で" "子供を育てる"みたいな意味が付随している。食育の本来からすれば、愛情云々はどうでも良い精神論であり*2和食/郷土料理である必要もない。出来合いの惣菜や外食が中心であったとしても別に構わないのだ*3


いっそ、この誤解に塗れた言葉を捨てようじゃないか。「食育」は確かに省略が過ぎて誤解を生じ易い。なれば基本に立ち返り、削ぎ落し過ぎた言葉を復活させて「食事教育」または「食事学習」とでも呼んではどうか。

*1:いや、日本に於いて「食育」という言葉が用いられた端緒はそもそも「食で育てる」的な概念だったのであって、海外のそれと対照する言葉ではなかったと言うべきなのだが

*2:育児に愛情不要という意味ではなく、愛情そのものは前提条件だが必ずしも料理という形である必要はないという意味だ

*3:まあ加工の工程を知るという意味では目の前で調理して見せる必要を認めぬではない