釣れますか

釣り:物議を醸すものを発表し、それに対する反応を引き出した上で「すべては演出であった」と暴露することで全体の流れをひとつのエンターテインメントに変換してみせる手法。


釣りは本質的にエンターテインメントである。高度な計算と迫真性により観客を惹き付け、クライマックスでの暴露により驚愕させる。落胆と安堵と高揚がない混ぜになった不思議な充足感。ある意味ではインタラクティヴアートの極地と言っても良い。
流石に今日では釣りを知らずに接する者も少なく、参加者も予め釣りの可能性を考慮に入れて行動することが多い。だけに綺麗な釣りは益々難しくなっているが、釣り師は釣りを予期されることまで考慮してネタ振りするなどの工夫により全体としての高度なメタネタを完成させてきた。その中には、敢えて怒りを誘うことでネタであることを忘れさせるなどの手法も含まれる。
しかし怒りを利用する手法は諸刃の剣である。怒らせるということは率直に言って不快にさせるということ。エンターテインメントとしてはマイナス状況であり、それを全部吹っ飛ばして笑いに変えるほどのオチを持たぬ限り失敗は必至となる。残るのは不快感を覚えた観客によるブーイングの嵐だ。
かの『降臨賞』審査に対するクレームは当人による釣り宣言めいたものが出たが、最後の最後まで単なるガチクレームであって釣りというにはお粗末すぎる。文末を見るに騒動全体をファック文芸に見立てたメタファ文のつもりなのかと思うが、むしろ自分ひとりが全容を見渡しているという全能感に溢れた中二病患者の仕業というのが順当なところだろう。腕利きのファ文士なら笑いを禁じ得ない強毒性ユーモアを仕込んで見せるところだと思うが。


もっとも悪いのは言い訳としての釣りだろう。これは釣り宣言ではあっても釣りではない。単に自らの無知を誤魔化すための嘘に過ぎない。
近年での格好の事例としては、中国の神舟7号による軌道上での船外活動中継映像に対するでっち上げ疑惑問題などがある。船外活動の映像に映ったデブリと見られる物体が気泡のようにも見えることから「水中で撮影した映像を使って宇宙空間のように見せたのではないか」との疑念が提示され紛糾、疑念のひとつひとつに詳細な検証が行なわれ事態は収束したが、その過程で最初に疑念を広めた動画の作者が釣りを宣言。しかし作者はどこにも釣りの可能性を示唆/「知っててわざと間違えて見せる」要素を入れておらず、真実釣りであったとすれば下手という他なく、そうでなければ自己欺瞞に過ぎない。


ネタはネタとして昇華し切ってこそ意味がある。失敗すれば腐り悪臭を放つだけだ。