模倣を公開し評価されることが重要

著作権上は、模倣を公開してはならない。けれど常に創作は模倣から始まるし、模倣を含まぬ創作はない。そして、模倣が確かな創作にまで昇華するためには模倣の公開と適切な批評が非常に重要だ。
今でも専門の教育機関では、訓練の一貫として模倣と批評を行なっている。勿論これは公開されない性質のものであり、また教育目的のものであるから著作権保護の例外として扱われている。
けれど、専門教育のみが技術を育てる時代は既に終わった。今はむしろインターネットを通じて情報が交換され、在野にして技術を磨く時代である。
どのような技術であれ、直接経験者に見せて指導を請うに勝る方法はない。優れた指導者がいなくても、多数の指導者がいればかなりの部分がカヴァーできる。習作のインターネットへの公開はこの問題に打って付けだが、その前には著作権法という壁が立ちはだかる。


著作権法の理念は文化の推進にある。著作物としての文化推進とは即ち著作者/著作物の増加であり、またそれらの鑑賞者/鑑賞機会の増加であると言えよう。
然るに模倣を含む習作の公開はこの理念に沿った行為と言えるが、著作権法の存在はむしろその邪魔となるばかりである。
無論、権利保障は職業著作者の支えとして重要だというのは理解できる。が、職業著作者のみが文化を支えるわけではない。数の上では著作物の中で職業著作者によるものなどほんの一握りであろう。
また流通に係る権利は確かに鑑賞機会拡大のに役立っていた経緯がある。しかし既にダイレクトな流通機構が極めて安価に利用可能となった現在、その恩恵も効力を失いつつある。マスは一部の著作物の鑑賞機会を拡大したが、同時にそれ以外を無視し/或いは抑え付けてもきた。


少数作品の大量鑑賞と大量作品の少数鑑賞、どちらが「文化の発展に寄与」しているだろうか?金の上では前者かも知れないが、多様性なら明らかに後者だ。守るべきはどちらなのだろうか。