何と戦っているのか、どう戦うべきなのか

概ね冷笑的に受け止められているらしいこの種の論議は、恐らくは過去に繰り返されて既に決着済みと見做されているか、或いは賛同されるところの少ない代物なのだろう、多分。
自己批判的に見れば、これは事実上何も生んでいない。単に「厭なものは厭だ」と言っているだけで、それにどう対処するかという視点が欠落している。
ということはまあ、書いている本人も認識しているわけだが、では何故そこを補わなかったかと言えば、補いようがなかったからだ。
ここで仮想敵としているのは一意的にはハンドアウトであったり演技主体のシステムであったり萌えであったりするわけだが、実質的な敵はむしろ「それを容認/歓迎/推進している世間/市場/業界」である。小さな市場であれ、これはマスとしての強大な影響力を持つ。翻って我が身はこの狭い業界ですらまったく無名の一個人だ。どこをどうやっても敵おう筈がない。つまり、「建設的に」補うとするならば、多分それは「厭なものを受け入れる」という形で処理するしかなくなってしまう。
勿論、まだ絶滅したわけではない。過去30年分(のうち初期からの20年分ぐらい)の資産は健在だし、少数存在を物理的距離に囚われず直結するインターネットという道具だってある。出版だって、電子的にはほとんどコストフリーだ。戦う余地はある。補給線のない、先細り確実なものではあるけれど。


初めて触れた当時よりも確実に世界は拡がっている筈なのに、肩身の狭さはむしろ強化されてしまったような気がする。