極論と極論の間

なにしろTRPGは明確な定義の定まらぬ遊びなので、一人一人認識が微妙に異なる。その上議論の過程でしばしば極論が飛び出すものだから、より一層話がややこしくなる。
結局のところ、「一面で双方とも正しい」し、同時に「双方とも正しくない」のだ。

判定装置としてのゲームマスターと脚本・監督としてのゲームマスター

TRPGを端的に表現すれば「物語の生成を楽しむ遊び」ということになろう。もう少し説明するならば「参加者全員で物語を作り上げる遊び」である。
そのための方法としては大きく2案が考えられる:

  1. 設定だけ考えて、全員がその場で設定に沿ってありうる展開を提案してゆく
  2. 誰か一人が脚本を書いて、全員で演じる

1では脚本家が主体となる物語を考えはするが、彼の役割は「大雑把な展開を予想し、それを実現するであろう初期設定を考える」程度のことで、それを受けての展開は参加者が各自自由に考えることになる。
実際にそこまで開放的なものはそう多くなく*1、大半は基本的な筋書を用意し、場面場面で考え得る選択肢ごとの分岐パターンを別途用意する感じだろう。アドヴェンチャーゲームやゲームブックのようなものだ(しかし選択肢は明示されない)。大きな意味では物語(の可能性)は既に生成済みなのだが、実際に完成されるのはプレイの時点である。
ここでのゲームマスターは基本的に判定装置であり、プレイヤーの行動宣言をルールと常識、およびシナリオ設定に照らして結果を返すのが役割である。まったく制御不能にならぬよう多少の誘導は行なうが、場を主導するのはあくまでプレイヤーであってゲームマスターではない。
2では、物語の生成を楽しむのは実質的に脚本家一人と言える。他の参加者は局所的演出としての演技を考えはするが、物語そのものに対する立場は「観客」である。またTRPGの遊びの本質が物語の生成にある以上、実質的にその意味で正しくTRPGを遊んだものは脚本家ただ一人ということになってしまう。
無論、実際にはそうではない-----つまり、そんな風に遊ばれることは有り得ない。実際には1を主体とするケースであっても脚本は他の参加者には明かされず、ただ各登場人物や背景世界の設定、あるいはシナリオの大筋だけが公開されることになる。参加者は限定的な情報を元にシナリオを推測し、それを完成へと導く。
事前の告示あるいは序盤で、脚本の最終的な結末が半ば明らかにされる、或いは監督が参加者を結末に向かって誘導することも多く、多分に「筋書をなぞる」意味合いが強いが、システム上のハプニングや何らかの読み違いなどから予想外の展開を迎えることもある。


1も2も各登場人物のセリフや行動までもが全部脚本に描かれているわけではなく、プレイによって初めてひとつの物語が生成される点で変わりはない。ただ、物語の主体がプレイヤーとゲームマスターにどの程度の比重で振り分けられるかに差がある。

人物設定に見る違い

ところでTRPGでは、参加者自身が自分の担当する人物を設定するのが通例である。しかしまったく自由に人物設定を行なっては巧く行かない場合も考えられる。1の例では予想される展開の幅が広過ぎて制御し切れないなど、2では脚本に似わぬ人物になってしまうなど。そこで、ある程度事前に設定可能な範囲を制限したり、場合によっては脚本家が人物設定まで終えて各自に配役することもある。
全般に、脚本主体である、つまり2に近いほど人物設定は制限せざるを得ない。而して参加者が人物設定をする慣例があるので、設定の制限がきついことはあまり歓迎されない。これは単に自分の我儘を通すというような意味合い以外にも、演技担当可能な人物のパターンとの合致という問題もある。
TRPGの参加者は役者ではないため、そうそう幅広い役を引き受けられるわけではない。基本的に本人と似たパターンを最も得意とする傾向があるので、それに合致しない場合は事前に予想されたように振る舞うことができず、他の参加者や脚本家としても望ましくない結果に終わってしまう。
反対に1の例では、一般に人物設定の制限はかなりゆるい。脚本にまったく無関係でなければ良い、程度の制限しか掛けられないことが多く、この点で参加者は伸びやかに好みの人物設定を行なうことができる(ただし、ルールに規定の範囲で)。これは、1のパターンが用意した脚本通りの展開を期待するものでなく、むしろ幅広い可能性をこそ重視する傾向にあるからである。


2型を目指して作られたシステムは人物設定の制限を前提として構成されているから、代わりに制限事項以外の部分を好きなように作れることが多い。これも担当可能なパターンに可能な限り合致させるための工夫であろう。対して1型のシステムではほとんどの項目がランダムに決定される例も多く、対照的である。とは言えまったくのランダムでは得意なパターンに合致しなくなってしまう可能性も高いので、何らかの調整ルールを持つものも多くなった。

どちらを好むか

あらゆるTRPGは1と2の中間にあるわけだが、どちらにどの程度重きを置くかで随分スタンスが異なってくる。
1を中心とした場合は、主導権を握るのはプレイヤーであり、プレイヤーが自主的に判断し行動しなければ物語は動かない。論理的思考と決断力が求められるゲームであると言える。
対して2ではゲームマスターが主導し紡ぐ物語に、各プレイヤーがどう乗るかが競われる。物語的な演出力を中心としたゲームである。


「ゲーム」という言葉は基本的に対戦的なものとして定義される。局所的なゲームとしては物語上の敵対勢力に対する行動などが存在するわけだが、TRPGのセッションを通したゲームとしての対戦相手は、1と2でやや異なる。
1での最大の対戦相手はゲームマスター対プレイヤーである。プレイヤーは各自の分担を通して団結しゲームマスター(の用意した状況)の打倒/打開に努める。初期の1型TRPGは本当に対戦的であったし、より物語寄りとなった現在でも「困難な障害を設定する敵」としての意義が大きい。
このパターンでは、シナリオの展開自体がひとつに定まらず、またそのいずれにも到達しないエンディング(例えばPCの全滅や予期せぬ行動による予定外の結末)さえもがひとつの成功となる。セッションとしての失敗があるとすれば、それはゲームマスターがプレイヤーの行動を判定し切れず物語として破綻した場合であろう。
プレイヤー主導であるが故にセッション成功時の満足感も大きいが、一方で敷居も高い。初期段階で目的を見失ったり、脚本での見通しが甘く展開を御しきれないなどの失敗例が目立ったために、徐々に2に比重を置いた「失敗し難いシステム」へと以降しつつある。
翻って2では物語上の敵対勢力さえも「PCを引き立たせる脇役」に過ぎず、基本的に困難な障害とは認定されない。競う相手はむしろ他のプレイヤー……即ち「物語の見せ場を誰が奪うか」である。いや、近年はそれすら予め脚本家によって指定される傾向にあるのだが。もはやそこには対戦的傾向はほとんどない。
シナリオはあまり分岐せず、エンディングも複数存在しないこともある。元々目的が明瞭であり、システムとしても目的の達成を要求する作りになっているため、「用意した筋書を大きく外れる」という状況自体半ばセッションの失敗となり、可能な限りそうしないように努力が払われる。
こちらはゲームマスター主導であるためプレイヤーは迷いを生じ難く、失敗はあまりない。その代わり、物語を生成する満足感の殆どはゲームマスター側にあり、プレイヤーの楽しみは主に演技に置かれる。これは(ゲームの定義から外れることも含め)本来のTRPGの楽しみ方としてはやや道を外れたものと言わざるを得ない。


無論遊びとしては「楽しければ良い」のであって1でも2でも好みに合わせて選べば良いわけだが、純粋にTRPGの本質から見る限りでは、2よりも1の方が"正しい"遊び方と言えるのではないだろうか。

*1:しかし本当にそれをやるシステムも存在する: