知識は愛だ。理論は愛の結晶だ。

知識に対する欲求は人間に備わった本能である。ただし、あらゆる対象に開かれたものではなく、特定の対象に限って強く発現する。あたかも異性を(或いは同性かも知れぬが)選り好みする如く。
対象を深く愛し求めるほどに知識は増してゆく。最初のうちは衝動に任せて蓄積するのみであったそれは、時と共に考察を生じ、やがてある種の理論として形成されてゆく。


学問というのはそうして発達してきた。必要があって知識を、理論を構築してきたのではない。衝動によって蓄積され、結果として発達してしまったのだ。
だから、それは社会によって制限できるようなものではない。モラルによっても、法によっても。どんな制限をかけても、知識はいずれそれを乗り越えてゆく。


こんなにも強い衝動であるのに、知識欲という本能の発現はごく一部に限られてしまうようだ。学問系の愛好家コミュニティに於いてさえ、つまりその対象を好きと公言して憚らない人達の間でさえ、知識を得ようという気のない人が多く存在する。不正確な情報に惑わされ、それを検証しようという気もない。そんなことで好きと言えるか
不正確な知識を捕まされるというのは、愛の喩えで言えば不実の愛だ。知った上で容認するのは構わない、それもまた愛の形だから。しかしよく知ろうとも思わない、そんな上辺だけの付き合いで満足する気か。それが本気の愛か。


知識に真摯であり、貪欲であったもののみが理論という結実を得られる。そしてまた次代の知識の実りを支えるのだ。
どうか多くの人に智の実りを、そして大樹の育たんことを。