ググるだけじゃなく

疑問に思ったことをなんでも自分で調べようとする姿勢は重要だが、時にはそれが錯誤に陥る罠ともなり得る。何故なら、調べた内容の確からしさを検証していないからだ。


今や検索1発でほとんどあらゆる情報が入手可能になった。だが検索結果はキーワードとの一致率や参照の多さから機械的に表示されているだけで、その内容の正しさを保証しない。
検索ばかりではない。本や新聞などで手に入れた情報であっても、その内容が正確であるとは限らない。専門家が書いたものであることが明らかな記事ならばいざ知らず、専門家のふりをした素人がとんでもないことを書いている本なども意外に多いものだ。記者にも専門分野のことを理解して書けるほどの人はほとんどいない。
だから、常に複数の情報源を当たって内容を比較し、正確な理解に努める必要がある。


きちんと複数の情報を確認してさえいれば、それがWeb上のものであっても結構な信頼性を得ることが可能である。ただし注意せねばならぬことがひとつ:複数の記事の情報源が同一とならぬよう。
Webでは記事のコピーが容易なため、しばしば複数の人が同じ情報を転載したり、部分的に流用してオリジナルであるかのような記事を書くことがある。そういう場合には、複数の記事を当たったつもりでも同じ情報からの派生物しか目にしていないといった事態に陥ってしまう。
これを防ぐ方法は簡単だ。肝心の内容について、まったく(あるいはほとんど)同じ表現となっていないかどうか注意して見ればいい。表現が一致すれば、それは恐らく同一の情報から派生したものだ(どちらがオリジナルなのか、あるいは両方ともコピーなのか、この際問わない)。
記事を書く際に何かを参照していたとしても、執筆者本人がそれをきちんと吸収し再構成して自分の言葉で語っているものであれば、それには一定の信頼性が生じる。単純なコピーでないということは、その人も恐らく複数の情報源に当たった上で書いたものであると考えられるからだ。


もう一つ重要なのは、検索時点で意図的な取捨選択を行わないようにすること。この段階ではあくまで同一情報かどうかの判断のみに留めるべきで、予断を持って記事を選り分けてしまうと偏った情報しか入ってこなくなる(既に自分自身の考えを固めた後では、それに基く選択によって効率良く情報を得ることも有効ではあるのだが)。
学問に類する情報ならば、普通は複数の説を併記するなど記事そのものが断定的にならぬように/偏見を持たぬように仕上げられるものだが、思想信条の類い-----宗教や政治も含め-----となると、途端に偏ったイデオロギに基く情報が増加する。これはそうした情報が本質的に客観を容認しない性質を持つからだが、ために一層接触吸収には慎重であらねばならず、常に複数の視点を意識的に渡り歩かねばならない。
そうして客観視することは、ある意味でイデオロギの本質的な理解を妨げる(中に入って初めて解ることというのもあるものだ)が、同時にイデオロギによる汚染を防止するとも言える。ひとつのイデオロギに染まる覚悟を決めるまでは、なるべく遠巻きに観察するに留めるべきだ。
中に入らないと判らない類のものは大概、中からでは判らないものも内包している。それを見極めた上で用いるのは構わないが、不用意に引き込まれるとなかなか抜け出せないので注意すべし。


「自分は何かに騙されているのではないか」などと感じた時こそ、情報収集は慎重に。危機感から冷静さを失うと、初め直感-----ここでは「騙されている」という状況-----を補強する情報ばかりが目に付いてしまいがちだ。「複数の情報を当たった」つもりが、結果として「偏った情報ばかり複数集めてしまった」になりかねない。
焦って結論に飛び付くのではなく、常に反証も探して双方を比較検討する癖を身に付けるべきだ。