人は誰しも様々なコンプレックスを抱えて生き、それに直面したときの防御行動をそれぞれに構築している。この手法は人によって異なるもので、傍目にはどんなに不合理に思えても本人にとってはそうでない、もしくはそれ以外の手法など取りようもない。
例えば、私は非常に社交性が低く親しくない他人との交流が強いストレスになるので、表面に強固な壁を築いて他人を寄せ付けないようにしている。その代わり、壁の内側に踏み込んだ人へのガードは非常に甘い。
妻は逆だ。彼女も非常に社交性が低いが、防御策は「見ず知らずの他人に丁寧に振る舞う」である。表面にクッションを置くことで軋轢を遠避けるのだが、その代わり不用意に一歩踏み込んだところに防衛ラインがある。私から見れば、この方法は相手に勘違いを発生させ自分のストレスを却って強めかねないのだが、彼女にはそうすることしかできないし、また彼女から見れば私は無用の軋轢を生じさせているように思えるだろう。
あるいは、私はストレス源となるできごとを「忘れる」ことでストレスからの逃避を図っているのだが、これは往々にして「命じられた仕事を失念して放置する」ことになるため、様々なトラブルに繋がり(客観的に見れば)却ってストレス源を増加させている。けれど、それが自覚できるからと言って逃避行動がなくなるわけではない。それは持って生まれた、或いは成長過程で既に築かれてしまったシステムであって、今更どうにかできるようなものでもないのだ。
件の吃音コンプレックスの件も、「そっとしておいて欲しい」という人、「大したことないと思うことで乗り越えた」という人、「気にしなければいいのに」という人、それぞれに自分の方法論があるというだけのこと。ただ、「自分はこうした/自分ならこうする」以上のことは単なる押し付けになってしまう、ということは自覚した方がいい。自分にとって最良のことが、他人にとっても最良とは限らない。