神秘と科学は相容れない

ニセ科学にかぶれる方々は、科学を欲しているのか神秘を欲しているのか、その辺を自覚すべきだと思った。
科学に神秘はない。神秘とは読んで字の如く秘められたるものであり、対して科学は明らかにする学問である。科学が触れた途端、神秘は神秘でなくなる。だから、神秘を望む向きは科学に近寄るべきではない。
宗教のように神秘を神秘として受容するのであれば、科学はその存在を容認する。
仮令将来、脳の働きが解明されてすべての神秘体験が「錯覚」で片付けられるようになったとしても、それが神秘的な体験であったこと、そして体験による個人の意識変化は真実であり、何ら否定されるものでもない。物理的な意味で神が存在しないとしても、神という概念が退けられるわけではない。科学と宗教は別の世界であり、対立するものではないのだ。


問題は、実質的に神秘を望んでいるにも関わらず、そのアイデンティティを科学に求めようとする場合である。例えば超能力、例えばマイナスイオン。「なんだか判らないけれど超人的な力」や「なんだか判らないけどすがすがしい気分」は科学ではない、しかし「これは決して怪しいものではなく、正しい科学なんですよ」と言われて安心したいという欲求から科学風の説明に縋る。純粋な信心より非論理的な行動である。
科学と「科学信仰」は全く別のものだ。科学とは説明を求める道であり、疑う力である。対して信仰とは無条件に受容する道であり、疑わぬ力である。科学への信仰は成立し得ない。信仰してしまったものは既に科学ではなく宗教だ。
マイナスイオンの効果なんですよ」→「ふーん、そうなんだ」の間には「マイナスイオンって何だか判らないけれど科学っぽい説明だからきっと正しいんだろう」が含まれている。科学であるなら、そこは「マイナスイオンって何ですか」でなければならないし、それに対して納得の行く答えが得られない限りは「ふーん、そうなんだ」に到着しない。
科学者がマイナスイオンから一足飛びに「非科学」という結論に達しているのは、間の検証過程がすべて修得済みの知識でまかなえるからであって、無検証のまま結論を導いているわけではない。その真似をして足りない知識を適当に想像で補ったりするから「なんだか判らないけど」のまま納得できてしまうのだろう。知らないことは調べ、尋ね、明らかにすべきである。
そうしたくない人は常に、「自分は科学より信仰を選ぶ」という自覚を持って、信心の道に邁進して頂きたい。努々、科学を装うなかれ。