コミュニケーションとは情報伝達のことではない

往々にしてヲタク諸氏は自らのコミュニケーションスキルの低さを嘆く。彼らとてそのことに自覚はあるのだ。にも関らず状況が改善しないのは、コミュニケーションについて根本的な勘違いをしているからに他ならない。


一般社会で要求される「コミュニケーション」とは情報を相手に伝達することではなく、相手の意思を推測することである。
一般にヲタク諸氏の情報伝達技能は決して低くない。それどころか社会的平均を大きく上回るだろう。これはとりわけ、文筆に於いて饒舌なことからも明らかだ(対面でその饒舌さが鳴りを潜めるのは、また別の話)。
にも関らずコミュニケーションスキルが低いと見做されているのは、相手の真意を図ることができないからだろう。
これはとりわけ会社組織などで顕著な傾向で、報告でも何でも求められているのは「相手が望む情報」であって、断じて「端的な事実の伝達」などではない(まだ社会に出ていない諸兄は学校教育に於いて求められる「作文」を想起されたい。良文と評価されるのはしばしば「教師の意に適う」文であって、内容が空疎であろうが書いた本人が露ほども信じていなかろうが問題ない)。
畢竟、ディスコミュニケーションの不幸は能力の不足ではなくプロトコルの相違、及び少数派であるが故の一方的な押し付けにあると言える。双方が情報伝達を行なえている場合、もしくは双方が言葉にならぬ意思まで汲み取れる場合、意思の疎通は速やかに行なわれ何の問題も生じない。


念の為に申し添えておくが、情報伝達は一方的な発信の能力ではないし意思推測もまた一方的な受信能力ではない。
情報伝達に長けた人物は他人の伝達する情報を理解する能力にも長けているし、意思推測に長けた人物は言外に意味を滲ませることにも長ける。然し両者はまったく別のスキルであるが故に互いの意思疎通には至らない。
思うに、これは理性を中心としたコミュニケーションと感情を中心としたコミュニケーションの違いではないか。
意思を明示する情報伝達は理性的/合理的コミュニケーションであり、感情を差し挟む余地はあまりない。意思疎通に齟齬がある場合の苛立ちや立場が尊重されないことに対する遺憾の意などはあるにせよ、基本的には双方が合理的な行動を示せば解消できる性質のものと言える。
対して明示を避けニュアンスを匂わせるコミュニケーションは主に感情を伝達するもので、言葉にし難いニュアンスを尊重する一方、明瞭な情報伝達が行なわれないためにしばしば誤解を生じる。合理的ではないが、一般に感情を合理的に消化することが苦手な人が多いため、こちらの方が好まれる。


理想的なコミュニケーションはむしろオタク諸氏が得意とする情報伝達の方だと思うが、誠に残念ながら現実に求められているのは意思推測能力、つまるところ「空気嫁」である。
私の理解するところ、こうした能力は鍛えて鍛えられるような性質のものでもない。従って、可能な限り摩擦を避ける唯一の方法は、周囲に「空気の読めない人物である」ということを周知徹底することに尽きる。
更に残念なことに、周知徹底しても尚、彼らはそれを求めることを止めようとはしないのだが。