mixiは双方向が等価であることを前提に設計されている

mixiが嫌になるようなメンタリティが非コミュと呼ばれるんじゃない? - kercの日記とか。


人間関係というのは結構微妙なもので、こちらが相手に感じている関係性が必ずしも相手がこちらに感じているものと等しいわけではない。極端な話、自分は親友だと思っていても相手にとっては数多い知人の一人、程度かも知れない。
という視点がmixiには抜け落ちている(或いは意図的に無視している)。マイミクシィ登録は必ず双方向的なもので、一方的なマイミクという関係性は有り得ない。
流石に全ての人間関係が等しい重要度を持っているわけではないことを渋々認めたためか、(むしろこちらが真実だろうが)それとも単に関係者数が増え過ぎて視認性が悪化する例が頻出したためか、最近になってマイミクのカテゴリ分類機能を実装したわけだが、これで漸くカテゴリ名による簡単な重み付けが可能になったわけだ。


ところでコミュニティサーヴィスの祖である関心空間では「ユーザをブックマーク」することによってマイミクシィに近似した機能を実現している。「ブックマーク」したユーザのプロフィール更新や日記、新規キーワード登録が逐一報告されるシステムで、ブックマークされる側は誰がブックマークしているかを知らない(最近までは何人にブックマークされているかも不明だった)ので気兼ねなくチェックできる。
ユーザ同士の直接的な繋がりではなくキーワードを介した間接的で緩やかな繋がりを善しとする設計思想故の実装ではあろうが、こちらの方が現実世界での強い人間関係を忌避する傾向のあるGeekには心地良いのではないだろうか。
っていうかつまり、「そんなに人と繋がりたくない」Geek向けではなく「人間関係を拡げることに疑問を抱かない」一般層を取り込んだことがmixiの強みなのだろうし、その限りに於いては正しい実装なのだろうけれど。

浅く広く形だけのコミュニケーションをとることは物凄く大事なこと。あいさつの有効性はここで再論するまでもないしょや。あーそうか、mixiは「あいさつツール」だと思えばいいのかもしれない。あいさつするキッカケを絶えず相互的に与えあえるツール。もちろん、あいさつをする人が薄っぺらいなんてことはない。

誰かにお近づきになりたいときに、会う回数を増やすのは当たり前にやってることだと思うんだけど、なんでweb上のコミュニケーションになるとそれが自然にできなくなる人が増えるんだろうね。

mixiの人間関係というのはあくまでWebによって物理的な距離がなくなっただけで、やっていることは現実社会と何ら変わりない。それならmixiの存在価値とはいったい何なのか。現実世界の延長なら現実世界を実際に拡張すれば良いのに。


……あー、こういうのを「非コミュ」とか呼ぶのか。