ゲームの本質と+α

昔の話を蒸し返すが。
以前ゲームの本質の話 - 妄想科學日報を書いた時、ゲームの本質って? | こどものもうそうblogにていまの「ゲーム」のポピュラリティは、「ゲームの本質+α」の+αの貢献が大きいはずだとの意見が出て来た。
ポピュラリティという限定条件下ではこれは非常に正しい。ただし、必ずしも「+」ではなく「&」である場合が多いのではないか。


「+」はゲームの本質部分に何かが追加された場合(αは本質部分に融合している)、「&」は本質と無関係な要素が追加された場合(αは本質部分から独立している)を指す。
例えばドラゴンエストは(日本のコンシューマーゲーム市場では)初めてRPGというゲームシステムをもたらしたが、これは実のところアドヴェンチャーゲームに異なる外見を与え、新たな障害を導入しただけの変種に過ぎない。アドヴェンチャーならばシーンを切り替え、話したり調べたりして先へ進むために必要なフラグを立てるところを、RPGではボスを倒したりダンジョンの奥からアイテムを入手したりすることでフラグが成立する。総当たり的にフラグ成立条件を探すゲームから、パラメータ上昇によってフラグ成立閾値を達成するゲームへと変化しただけで、やっていることはあまり変わらない。コマンド制が受け継がれているあたりからも、作り手自身その影響を強く引きずっていることが伺える。
けれどもこの+αはゲームの雰囲気を劇的に変え、またプレイスタイルをも変化させた。これまではたった一つの正解を探す作業であったフラグ立てを、キャラの成長とアイテム装備、及びそれを実現するための行動に置き換えることでプレイヤーの介入感と自由感を大きくし、気の済むまで遊べるようにしたのだ。追加/変更されたαの部分が本質部分に影響を与えているわけで、まさしく+αと言える。
対して、例えばドラゴンエストとファイナルファンタジーのゲーム的な差というのは殆どない。もちろんシナリオやデータ設定が全く違うからゲームのバランスは異なってくるだろうし、固有名詞やグラフィックの違いから受ける印象は新しいが、その部分は本質とはあまり関係がない。これは言わば「&α」である。αの部分は確かに大きく追加/変更されているが、それは本質とは独立しており影響を殆ど与えない。
同じジャンルで比べればどれも差がないようにも思えるだろうが、実は一概にそうとも言えない。女神転生は克服すべき障害であった敵を、交渉可能な相手、または仲間に引き入れ可能なリソースとして扱ってみせたことで、似て非なるゲーム性を与えることに成功した。同じRPGというジャンルであっても、新たな価値を想像することができるという実例である。


どんなゲームにせよ、完全にオリジナルというものは殆どない。いずれ何らかの既存ルールを受け継いで、それに変更を加えて作って行く。その意味ではすべてのゲームは+αによって成立している。
しかしそこで加えられるαは、加えることに意味がなければならない。加えられることで何らかの変化があり、それがオリジナルにない味をもたらすこと、またそのことでオリジナル以上の面白さが生み出されること。そうでなければ目新しさで一時売れたとしても、すぐに忘れられ、見捨てられる。作品とはそうあるべきだ。
残念ながら、日本のゲーム市場はその当初から極めて消費的に成立して来た。発売から2週間程度が売り上げのピークで、その後1/10以下に落ち込む。3ヶ月もすれば半値以下の中古品が溢れ、もう見向きもされない。常に新しいものを求め続ける市場に応えるためには、粗悪品でもαを追加し続けなければならなかったのだろう。他社のヒット作はすぐ模倣され、自社のヒット作は手を替え品を替え連作されるようになった。
私が言いたかったことは「シンプルなゲームにαを追加するな」ではなく「意味のないαを削除せよ」である。その辺り自分でも整理できていなかったのだが、多分私の考える「本当に面白いゲーム」はαを持たないシンプルなゲームというわけではなく、αに存在価値のあるゲームなのだと思う。