考古的あれこれ

絹と作物

以前から日本神話に於ける食物起源神話の中で、種々の味物の一つとして「蚕」が挙げられることに疑問を持っていたのだが、調べてみると養蚕の伝来(弥生時代のこととあるから紀元前8世紀〜3世紀の間)は古事記の成立(712年)よりも遥かに前であるらしい。
魏志倭人伝(280〜290年頃)には倭国に養蚕技術のあることが記録されており、また実際に弥生期の遺跡から絹が発掘されている。古事記編纂の時点で蚕が重要な農産物の一つとして捉えられていたことは疑いなく、故に食物起源神話にまでその存在が語られるのであろう。
古事記に語られる速須佐之男命による大気都比売神殺害や日本書紀月夜見尊による保食神殺害は明らかにハイヌヴェレ系神話であり、朝鮮半島を経由してオーストロネシア語族を持ち込んだ南方系民族に拠って伝えられたものであることは疑いない。
この民族は同時に、縄文系文化を駆逐し北方へ追い戻した張本人でもあろう。天孫降臨のくだりで天津神に拠る国津神の征服が行われているのは、その辺りを象徴するものと見て間違いあるまい。
ということは、弥生時代に絹が伝来したというよりは、南方より絹を持った文化が侵入して来たことで弥生時代が始まったとするのが正解と考えられる。
面白いことに天孫降臨の中では食物神殺害に拠らず天降る神が種を授けることによって食物が発生するデメテル型神話も同時に語られている。これは複数の文化圏が伝来することに起因するものか。

農耕の始まりと生け贄の始まり

ハイヌヴェレ神話は明らかに供犠的性格を持つものである。典型例の一つであるニューギニアのマリンド族はマヨ祭儀と呼ばれる成人の儀式の際、実際に生け贄として選ばれた少女を参加者全員で食べる。またアステカ神話では死んだ女神に人間の心臓と血液を捧げる描写がある。
恐らくは日本神話に於いても(渡来時点で既に失われていた可能性は高いが)源流としては供犠を内包していたのだろう。
狩猟文化に於いて供犠が発生しうるものであるかどうかは定かでないが、狩猟は生命を狩り取るという性質に於いて行為自体が常に供犠的性格を有するが故に、人間を捧げるといった発想に到達しない可能性が高いのではないかと推察される。
想像するに、文字通り自然の恵みを享受していた狩猟/採取文化と異なり、自らの手で作り育てるという行為は、技術的な未熟さの故にしばしばその責任を「神」に求めねばならず、それが同等の代償を与える行為としての供犠に結びついたのではないだろうか。或いは農耕にどこかしら付き纏うある種の不自然さが、「命を得る代償としての供犠」を発生させたのか。

農耕文化と転生の関連性

農耕は繰り返し作物を再生する行為である。一度は死を迎えた作物は、種から再び生命を得、次なる実りをもたらす。これに対価/原料としての生命を支払う行為が供犠なのだとすれば、捧じられた生命は形を変えて作物としてよみがえったのであり、また再び殺されることによって我々の命になったのであり、更には転生によって新たな命になると考えられるようになったのではないだろうか。
農耕文化でしか転生の概念が生じないとするに足る根拠を持たないので全くの憶測となるが、例えばアイヌ民族アメリ先住民族らはトーテミズムを信仰の基礎とする狩猟民族であり、死後の転生は存在しない。またキリスト教圏では転生ではなく再生という形ではあるが、現世への復帰が語られている。
日本に於いても山の民の信仰形態に転生はないようで、知る限りの範囲ではこの思いつきが裏付けられているような気がする。