帰属団体の責をどの程度個人が負うべきか

今回の騒動で、以前からことあるごとに頭の片隅を過って来た違和感がまたもや鎌首を擡げているので、ここに書いておく。
一体に個人の責と帰属する/した団体の責とは、どの程度切り離されまた同一視されるべきなのだろうか。


件の団体が許し難い大量殺戮を画策(し、半ば成功)した事は紛れもない事実である。それを計画指導した人物の責は当然ながら重大であろう。しかし必ずしも望んで/事の重大さを理解してそれを行ったわけではない実行犯や、事件に直接関与していない信者の責は如何ばかりだろうか。彼らもまた、「事件を起こした団体」という括りで共同責任を負わねばならぬ立場なのだろうか。
私にはYesともNoとも断言しかねる。しかし、仮にYesだという立場に立つのであれば、その者は例えば首相の靖国参拝に伴うアジア諸国の非難や第二次大戦の戦争責任などの負債も「日本人」という括りに於いて背負わねばならないし、或いは不祥事を起こした会社に所属する社員としての責、罪を犯した者の血縁としての責……そうしたものまで負わねばならない。
逆にNoであれば、どこまでが直接責任の範囲でどこからが無罪なのかを明確にする必要がある。先の例では、計画立案者は明確な犯意を持っているから有罪といえるだろう。しかしどのような犯罪的行為であろうとそれを空想する事は憲法に定められた自由であり、考えること自体は罪とならない。では「首謀者だが実行者ではない者」と「悪辣な空想だが罪ではない者」の境界はどこにあるのか?


無論どちらの意見も極論に過ぎない。だが現に、この極論は常に問われ続け、そしてグレーゾーンのどこかで曖昧な線引きが為され裁かれて行く。


もう一つ追記。どんな罪を犯した者であろうと、罪を根拠に私的に裁かれるようなことがあってはならない。裁きは個人の責任に於いて行なえるようなものではなく、それ故国がその責を負う。国が裁きを下した(或いは下さなかった)ことで全ての罪は決着すべきだ。
無論、直接/間接の被害者がそんなことで納得し赦免するとは思わないが、「誰か憎む対象を持たねばならない」という精神状態が決して健全なものではなく、また正当性を持たない感情論であることも付記しておく。そこまで理解した上でどう考えるかは自由だが、「憎まれて当然」とは考えぬことだ。