Intelligent Designという非科学

産經新聞の記事「http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html」を、当初「インテリジェント・デザイン」なるタイトルからデザイン関連の話と勘違いして読んでしまったわけだが、実体は単なるトンデモであった。
要約すれば「自然は巧くでき過ぎている。きっと知的存在によってコントロールされているに違いない」というもの。つまりは神の存在をなんとか科学に盛り込もうという、目的から先に発生した論理である。中世の神学議論と何ら変わりない。
単に神を「知的存在」などと言い換えて信仰するだけなら只の新興宗教で終わるのだが、これの問題は「科学」を名乗り、自らも科学的と信じているらしいところにある。
いかなるものも超越する存在としての「神」ならばこそ、「無作為には発生しないように思われるから」という薄弱な根拠を以てしてその存在を肯定するのも容認されるが、神ではない何らかの知的存在となると、どうしても「彼(ら)もまた別の知的存在に創られたもの」という撞着に陥らざるを得まい。
結局のところ、ID論者が「信じたい」のは神(名称はどうあれそれに類する絶対者)の存在であり、また「人類はそれにより聖別された」という無意味な優越感に過ぎない。そんなものに自己実存を託さねばならない不安定性は哀れですらある。
科学は神の不在を証明しないが、神が不在でも可である事を証明しはするかも知れない。それすら許す事ができないというのか。


そう言えばロバート・J・ソウヤーイリーガル・エイリアン (ハヤカワ文庫SF)で登場するトソク人の信仰形態がまさにこれであったな。しかし彼らは自らの不完全性を認識し、神の似姿ではない事を理解した結果、真に神の創造物たる別種の知的存在を探しに行くわけだが。
同じ理論に立脚してもこちらの方が理性的ではあるまいか。
コメント欄で長々とID論者との議論を行っておられる幻影随想: 進化論に関しての通行人氏へのお答えからhttp://www.brh.co.jp/experience/seimeisi/12/ss_1.htmlを読んでいて思い出したが、そう言えば目の発生についてはイリーガル・エイリアンでも触れていた。つまり彼は明らかにID論を念頭に置いてこれを書いたわけだな。


ところで日本のIntelligent Design「学説」を支持する団体のページには、米PBSテレビや英BBCなどでの討論の様子が掲載されているのだが、これがどう見ても彼らに分の悪い流れになっているのは面白い。ある意味ではそれが彼らの「公平さ」を主張する指針なのかも知れないが。
しかしBBSの司会者、シアトルに本部を置く「ディスカヴァリー・インスティテュート」は、インテリジェント・デザインを叫んでいる圧力団体の一つですとか言っちゃって良いのかね。