early adopterにとっての質の高さをどう維持するか

"http://blog.windy.ac/archives/000866.html"を読んで、以前書いた文章を思い出した。まとめ切れなかったので加筆しようと思いながら放置してしまったのだが、良い機会なのでここにある種の続きを書く。
まず、2種のコミュニティを例にとり、参加人数の増加による影響を検証する。

例1:関心空間の場合

関心空間はBlog登場以前に良質なコミュニティとして知られた、関心をシェアするシステムである。
私がこれに参加したのは、恐らくベータテストを終了して間もない頃だったのではなかろうか。まだユーザー数は2000人に満たず(私のユーザーIDは1643だった)、登録キーワードにはある種の秩序があった。多くのユーザーに関心を持ってもらえるよう文章を工夫し、他人と重複しないよう気を配る*1。また、他人を不快にさせることのないようネガティヴな関心は避け、(あくまで他人に利用可能な物を登録するという観点から)事象に対する関心は控えられた。


しかし、ほぼ日刊イトイ新聞などで取り上げられてユーザーが劇的に増加した結果、そうした不文律は打ち砕かれてしまった。大半の新参ユーザーが行ったことは関心のシェアではなく、自分語りとしての「属性」登録に他ならない。事象キーワードや重複キーワード、ネガティヴキーワードが横行し、中にはキーワードで日記を書く例すらあった。
また、この時期にサーバーの動作が劇的に低下、しかし関心空間を運営側はサーバー増強などの手を打たず*2ヘヴィーユーザーを中心に退会や利用頻度の低下が目立った。

例2:Play By Mailの場合

Play By Mail(以下PBM)とは、手紙によるやりとりで進行するストーリー主導型ゲーム*3である。プレイヤーはある架空世界の住人を演じ、その世界の共通ニュースと個人に渡される自キャラクター周辺の状況を元に行動を申告、運営側はそれらを取りまとめて世界情勢に反映させるとともに行動結果/次の状況を返す。
このゲームが初めて実施されたのは1988年、続く1990年の「蓬莱学園の冒険!」は大変な人気を博し、その後の参加人数(及び競合サーヴィス)を激増させた。しかし、後続のサーヴィスは(人数を集めはしたものの)思ったような成功を見せず、1997年頃を最後に下火となった。
下火になった原因は結局のところ、ユーザー数の増加による質の低下に他ならない。


PBMの面白さは「思い描いた行動が思ったようには反映されない」ことにあったと言える。プレイヤーは毎回の行動を申告し、それを元に書かれたショートストーリーを受け取るが、必ずしもここに自身の行動が反映されるとは限らない。独りよがりであったり、特に周囲に影響を与えないような行動であればまったく無視される。だから、プレイヤーはストーリー中に登場できるような「質の高い」アクションを心がけた。
特に質の高いプレイは世界情勢にすら影響を与え得る。つまり、全員に配られるニュースに名前が出ることになる。


しかし、ユーザー数が増えるに連れ、広範囲に影響を及ぼすことは非常に難しくなった。目標へのハードルが限りなく高くなったのである。
これはリプライに於いても例外ではない。ユーザーの行動申告は、ゲーム内での地域なり立場なりといった区切りを元に配分され、それをスタッフが文章化する。ユーザー数が増加すればスタッフ一人当たりの担当人数は増える*4。その分、ストーリー内に自分が登場する可能性は低下する。
古くからのユーザーはそれなりにコツを掴んでいるためにハードルの高さをそれほど感じないかもしれない。しかし新参ユーザーにしてみれば「何をやっても反応がない」という感想を抱かざるを得ない。
いくつかのサーヴィスではユーザー全員に(短文ながらも)個別のストーリーを返すという方針を打ち出した。しかし、その結果発生したのは粗製濫造なグダグダの文章と、箸にも棒にもかからない独りよがり行動の増加である。文章内に自キャラが登場するというモティヴェーションが半ば消失し、仲間内のごっこ遊び*5的なレヴェルで満足できるライトユーザーのみが生き残った。


また、プレイヤー数の増加は世界全体の見通し低下にも繋がる。現在の世界情勢が把握しづらくなったことでストーリーの流れは曖昧模糊としたものになり、一体感が失われたことで全体としての盛り上がりに欠ける印象を残した。

質的低下の原因

上記のいずれも、明らかにユーザー数の激増から問題が生じている。
ユーザー増加にサーヴィス提供側の体勢が追いつかないことによるサーヴィスの停滞はこの際度外視するとして、それ以外の点でなぜユーザー数増加が問題に繋がるのか。


一説によれば、単一コニュニティが維持できる人数上限は大体5000人程度だそうだ(ソースは失念)。この程度までの規模では活発に活動するユーザーの絶対数が少ないためだろうか、全員が「顔見知り」的感覚を有し、一体感が生まれる。またユーザー個々の活動がコミュニティに影響する範囲が相対的に大きいため、常にコミュニティ全体が意識され、モラル(或いは共通認識)も高い。
しかし、新参ユーザーが急増する事で、コミュニティ全体を把握する事ができなくなり、一体感は消失する。古参ユーザーは古参ユーザー同士のつながりを保つが、新参ユーザーはそこに入り込めず、この時点でコミュニティが分裂する。また新参ユーザーにはモラルも形成されておらず、それを伝えるべき層とも断絶しているため、共通認識が生まれない。更には新参層の方が遥かに多くなるため、これまでの不文律的共通認識そのものが無効化され得る。このことは後に、古参層との軋轢にも繋がる。

解決方法

結局、

  1. 全体が見えない
  2. 全体に影響を及ぼせない

ことがコミュニティ崩壊の要因であり、この二つは全て人数の増加が原因である。
増加数が穏やかであれば、新参ユーザーを基本合意の内に取り込んで行く事でコミュニティの基盤を崩す事なく拡大する事も不可能ではないかも知れない(それでも1万程度が上限だと思うが)。しかし急激に増加すればその猶予もない。
従って、ユーザー数の増加を抑えることでコミュニティ崩壊を食い止める(には至らぬまでも、少なくとも緩やかにする)ことは可能なようにも思えるが、口コミの効果はユーザー数の増加に伴い指数関数的に増加するのが常であり、それを抑える策はまずもって意味がない。


代わりに、ユーザーに最初から全体を見せないというのはどうだろうか。何らかの方法でユーザーの可視範囲を制限する事で、擬似的にではあるが一体感と帰属意識を持たせる事は可能だろう。
実は、既にそれを実現しているシステムがある。mixiに始まるSNSである。
例えば、既に100万ユーザーを突破したmixiであるが、その勢いは微塵も衰えを見せない。それは、mixiが最初からmixi全体を見せる設計ではなく、内部に複数の区切りを設け、所属した部分だけを見せる事によって帰属意識を醸成するシステムだからだろう。


mixiの場合は単にコミュニティ内コミュニティを設けるというやり方だが、この方法では参加人数が5000を越えた大型コミュニティの崩壊は避けられない。ユーザーはそれぞれに別のコミュニティを持っているから、一つ二つ崩壊したところで別段不具合を感じないだろうが、或いは内部に直接的な区切りを設定し難い構造の場合でも有効な手段はないものか。
例えば、ユーザーの帰属集団が入会時期によって段階的に発生する可能性が高い事を利用し、会員数の前後1000番程度しか可視にならないシステムというのはどうか。全体としては一つであり、多数の重複エリアによって連続的に繋がってはいるものの、個々のユーザーから見れば常に2000人規模のコニュニティであるというシステム。
実際にやってみると様々な問題が出ては来るのだろうが、機会があれば実験してみたいところだ。

*1:重複は禁じられていないが、別の視点を表現できないならば不要との認識があった

*2:まったく対策されなかったかどうかは不明であるが、少なくとも問題は解消しなかった

*3:より正確には、Play By Mailそのものは「手紙でプレイする」という以上の意味を表す言葉ではない。古くは手紙で一手一手を送りプレイするチェスなどを指したようだ

*4:当然、規模に応じて増員が図られるが、質を保ったままライターを増やすのは容易ではない

*5:実は個別ストーリー制が発生する前から、知り合ったプレイヤー同士で自分たちのキャラを使ってストーリーを作る形でごっこ遊び的個別ストーリーは存在した