ゲームの本質の話

本来は任天堂が次世代ゲーム機(Revolution)の情報を一部明らかに | スラド - 妄想科學日報へのコメントの筈だったが、考えるうちに長くなったので本文に書くことにする。


ゲームについて語る以上、まずゲームを定義せねばならない。
私はゲームの定義について、

  1. ルール(制限)があり、
  2. 達成すべき目的があり、
  3. 達成を阻む障害があり、
  4. プレイヤーが目的達成のために意志決定できるもの

と考える。
例えば人生ゲームは(この定義に於いて)ゲームとは呼び難い。その行動は一切がランダムに処理され、プレーヤーに意志決定の余地がないからだ。
その上で、ゲームの面白さというものについて考えてみる。


ゲームの面白さとは何か。我々は何を面白がっているのか。一口にゲームと言っても幅広いが、共通要素としての「面白さ」は存在するのか。
ところで先程の定義のうち、人が関わるのは4の「意志決定」だけである。1〜3だけなら(効率は悪いが)完全ランダムで行動が選択されても、確率的にはいつか目的が果たされる筈だが、それにはいかなる面白みもない。
つまり、意志決定こそが面白さであるということができる。


しかし、意志決定の要素があれば良いというわけではない。先程例に挙げた人生ゲームの中にも、途中でコースを選択できるものがあるが、これをプレーヤーが選ぶ要素があるからと言って、人生ゲームが「ゲーム」に昇格するわけではない。なんとなれば、その意志決定は目的達成に結びつくとは言えないからだ。2つのコースのメリットとデメリット、それにより勝率にどのような影響を及ぼすか、それが見えない状態での意志決定はランダムと何ら変わりない。
先程の言葉に付け加えれば「目的達成のための意志決定」こそがゲームの面白さということになろう。


ここで再び前述の完全ランダムで行動が選択されても、確率的にはいつか目的が果たされるという一文を想起頂きたい。目的達成のための意志決定とは言え、それがランダムと何ら変わりない状態であっても目的が果たされる可能性があるとすれば、意志決定とランダムな決定の有意な差とは何か。
それは「効率」である。
プレイヤーは原則として、目的達成に向け最大限の効果を上げるために意志決定を行う。ゲームに費やせる時間は有限なのでそうしなければ(現実的に)目的が達成されないとか、あるいはもっと単純に目的の一部に時間制限があったり、対戦であれば「他のプレイヤーが目的を達成するより早く」という制限があるなど、効率の追求そのものが目的達成の為に必要となるように仕組まれているからでもあろうが、何れにせよゲームの制限に行動を最適化し、効率の良い行動で目的達成を目指すことになる。
つまり、目的達成(=ゲームクリア)の為に行動を最適化することがプレイの目的だとも言えよう。
しかし、目的があまりに早く達成されてしまえば、楽しみはそこで終わってしまう。従ってゲームには常に最適化を阻む要因が仕掛けられ、その時間を適度に引き延ばすように設計されることになる。
アクション要素の強いゲームに於ける最適化の例は簡単に理解頂けるものと思うので、ここではRPGを例に取ろう。


RPGで達成すべき目的とは勿論ラスボスの打倒或いはそれに類する行動に因るゲームのクリアだが、それまでの間に段階的に障害たるボスが仕掛けられているのが普通である。これら個々の目的を達成するために手駒のステータスを上昇させ、障害を乗り越えられるだけの数値を目指す。同時にプレイヤーは新たに獲得したスキルの効果を学習し、自分なりの勝ちパターンを組み上げる。これが最適化である。
充分に最適化が進んだ時点で雑魚戦は単なる消化試合となり楽しみが失われる。そこでプレイヤーはボスを打倒し、次のステージに進む。すると雑魚そのものが強化され、新たな最適化の必要に迫られる……


因みに選択肢を辿るだけのアドヴェンチャーの場合、本質的にはゲームではなく小説の変形と理解すべきであり、面白さの要素もまた小説に準ずる。


念の為申し添えておくが、「ゲームとは項楽しむべきだ」とか「こんなものはゲームではないからやるな」とか、そんなことを主張したいわけではない。私の考えるところのゲームの本質的な楽しみはそういうところにある、というだけのことである(と言葉足らずの部分を補っておく)。