「虐殺器官」映画と原作の違いについて

封切後すぐに観に行くつもりが都合つかず、先日ようやく観ることができた。
個人的には伊藤計劃 映像化プロジェクト三部作の中でこれが一番忠実かつ完璧な出来だと感じたのだが、感想を見ると意外に批判も多く、とりわけ原作派からの文句が少なからず出ているように感じられた。また説明抜きに情報量の多い作品であるために理解が追い付かないという声も聞かれるようだ。
そこで、原作との比較を中心として解説を試みたい。
必然的にネタバレを含むので、続きは畳んでおく。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

変更されたもの

いくつかの出来事は前後の事件とひとまとめにするなどして圧縮が図られている。

アレックスの死因

原作では、最初の作戦後の自殺であったはずのアレックスの死は、劇中では作戦行動中の異変による射殺・焼却となった。原因として感情調整値のバグが報告されているが、実際には現地の言葉に堪能であったことで同地のプロパガンダ放送などに忍び込んでいた「虐殺の文法」を受け機能不全を引き起こしたのではないかと推測される。この後の災禍を予期させる印象付けとしてはむしろ良い改変ではないだろうか。

ルツィアとの逃避行

原作ではカフカの墓参りの後、ルーシャスの店でブドヴァイゼルを飲み、ここでルツィアの告解を受け(そして自分も母の死について話した)、店を出て家まで送る市電を降りたところで、追手に気付く展開である。
対して映画では、店を出て市電の中で告解を受け、乗り込んできた追手を撒いて逃げる(なお店内でルツィアはブドヴァイゼルに口をつけていない)。大差ないが、展開がちょっとだけ違う。

ジョン・ポール逮捕後

映画ではヘリが警戒ラインを越えユージン&クルップ社の制空権内に入ったあたりで所属不明のヘリに撃墜されたが、原作ではヘリから輸送列車に乗り換えたところで武装ヘリに強襲されている。まあこれも大した違いではない。

鱗翅目

「計数されざる者」たちに捕まった時、指先に蛾が止まる。これは逃避の時点で指先から時折滴らせていたフェロモン剤に寄ってきたもので、追跡犬にその匂いを辿らせて特殊検索軍の救助部隊が突入してくる(この点は原作通りな)のだが、この後コンバットメディカルのカウンセラーと会話するシーンで背後に流されている映像に蝶が飛び回っている。主人公の内面描写がなくなった分を埋める、魂の飛散の象徴的な演出なのだろうか。

追記:ポールの死

これは扱いが小さかったのでスルーしていた点だが、実は原作だと主人公はポールを「生かして」連れ帰るが別の隊員がこれを射殺し「作戦終了です」と結ぶのに対し、映画では自らの手で射殺している。
この点は、(後述する)「主人公の描かれぬ内面」に代わり、主体的な選択を描写する部分ではないか、とする指摘が映画「虐殺器官」、原作からの改変あったけどすごく良かったよという話 - Privatterにあり、納得した。尺の都合もあって省かざるを得なかった部分をそのような形で補完するというのは脚本の巧さだと思う。

省かれたもの

母の死

原作にあって映画にはない一番大きな要素は、主人公の過去に絡む内面描写だ。原作では、主人公は事故による脳挫傷で生命維持ナノマシンによって延命されている母の医療措置終了させ「殺した」ことについて未だに迷っており、それと「暗殺者としての記憶」が綯い交ぜになって繰り返し悪夢を見る。この「母の死への償えぬ罪悪感」は同じく「愛する人の妻子の死への償えぬ罪悪感」を持ち続けているヒロインに自分を重ねての、そして「自分を罰してくれる」期待への思い入れとなって表れているが、それを描くには尺が足りないこともあり、ばっさりと切り落とされている。
その結果として生じた問題は主に

  1. 母の脳死による「脳機能のどれぐらいが残っていれば意識と言えるか」という問いがなくなる
  2. 贖罪意識が見えないのでヒロインへの思い入れが恋慕程度のものになる

といったところだろう。
1については、主人公自身の経験に照らしての「感覚マスキングによって脳モジュールの一部がブロックされている状態の自分は自分自身と言えるか」といった自問が弱まることを意味するが、それは母の脳死によってのみ語られる部分ではなく、ジョン・ポールやカウンセラーの口から繰り返される部分でもあるので、省いても問題はない。
2は単に「観客が感情移入しやすい動機付け」程度の話だ。そもそも主人公は基本的に本作のテーマである「意識とは何か」という問いに対しても、あるいはその答えとしてのジョン・ポールの理論と実践に対しても、傍観者の立場であるから動機はさしたる必要がない。

エピローグ

正確には、これは「省かれたが省かれていないもの」だ。
原作だと、最後に主人公は軍を辞め、公聴会で証言を「撒き」、そしてアメリカ全土の暴動をバックにピザを食べるシーンで終わるが、映画では公聴会の様子は意図的に飛ばされている。プロローグで発言の寸前までが描かれ、エピローグでは語り終えた後と、ニュース映像を見ながら適切に深層文法が機能しているかどうかをチェックしているシーンが描かれたのみで、それが何を意味し、その後どうなるのかは、敢えて語られない。だが、この物語を正しく理解し、描かれたものを正しく読み取っていれば、誤解のしようもなく「同じものを描いている」ことが把握できる。