ハイチ革命に於ける独自屍者技術の介在可能性について

1791年から1804年にかけて、フランス及びスペイン領であったイスパニョーラ島に於いて発生した、所謂ハイチ革命は、最終的には黒人奴隷による独立を以て終焉した。
総数こそ島民に分があったとはいえ、当時ヨーロッパ随一の精強を誇ったフランス軍が碌な武装も持たぬ筈の反乱軍に敗退した事実は大きな衝撃を以て迎えられた。
表向きの敗因は、フランス軍側に蔓延した黄熱病ということになっている。しかし今日では、この病がヒト間での直接感染性を持たないことが判明しており、また重症化の割合は20〜30%程度と、(致命的な病ではあるが)実に兵の7割を失った事実と符合しない。

革命の推移

フランス領サン=ドマング(現ハイチ西部)は元々、カリブ海のスペイン領イスパニョーラ島西側をフランスが占領・割譲して成立した植民地で、アフリカ大陸から連行した奴隷によるプランテーションで大量のコーヒーと砂糖を生産していた。奴隷の扱いは酷く、過酷な労働による死だけでなく制裁や未開の山野追放も「合法化」され、また決死の逃走も少なくなかった。こうして山へ入った逃亡奴隷の一部は生き延び、共同体を組織した。
18世紀半ば、最初の反乱が発生する。当時これを指揮した反乱軍のリーダーは呪術師として崇敬を受けたマッカンダル。彼は反乱──というより抵抗運動と呼ぶべきか、即ち支配層の弱体化を図り呪詛を執り行った。フランス人農場主側の記録から見るに、毒殺を主体としたものであったと考えられる。

マッカンダルが逃亡したのは1751年、活動を開始したのは1757年である。奇妙なことに、マッカンダルは活動の開始から2年も経たぬうちに自ら敵の手に落ちる。ある夜、農場の付近に一人で佇んでいるところを発見されたが、酔っているかのように反応は虚ろで、抵抗もせず捕えられたという。そのまま取り調べを行なうこともなく、翌朝には火刑に処せられたと記録にはある。
指導者を失った筈の逃亡奴隷団はしかし瓦解することもなく、反乱は継続した。ただしこの動きは散発的であり、大勢としてはフランスの支配を揺るがすようなものではなかったため、フランス側はさしたる動きを見せていない。本格的に山狩りなどを実施するには駐在兵力が心許ないという事情もあった。

1790年、フランス本国の革命、及び人権宣言のニュースがサン=ドマングにも報じられたことを受け、現地でも革命の機運が高まった。当初はむしろ白人層による本国の重税からの独立、あるいは混血人層が人権宣言を受け白人と同様の権利を求めるものであり黒人奴隷層は蚊帳の外だったが、突如として全黒人が武装蜂起する。混血人に対する白人の制裁があまりに残酷であったためなどとも言われるが、その程度の残酷さは他ならぬ黒人奴隷を対象に連綿と続いてきたものであり、蜂起の理由とするには無理がある。実際は本国が革命で軍を動かせぬ状態を好機と見たものではないかと考えられる。
反乱はスペイン領側にも及び、1798年には駐留スペイン軍及び遠征イギリス軍までも打ち破って全土を統一するに至った。
これに対しフランス革命政府を共和制から再び独裁に戻したナポレオンは、収益性の高い植民地の独立を良しとせず、再び支配下に収めるべく兵3万1千からなる遠征軍をハイチに送り込んだ。

だが前述の通り、遠征軍は兵の7割を失う打撃を受け壊滅という、惨憺たる戦果であった。免疫を持たぬ兵士たちに黄熱病が猛威を振るったにせよ、それによる死亡数は2割程度、また死亡までは至らぬにせよ戦闘不能に陥る兵が半数にも及んだと仮定しても、近代化された精強と粗野な一揆集団ではなお相当の戦力差がある。にも関わらず、フランス遠征軍がこれほどの打撃を被った理由はどこにあるのか。
ここで、逃走奴隷集団の指導者が呪術師であった点に目を向けたい。

ハイチ黒人奴隷の民間信仰

ハイチの黒人奴隷は主に西アフリカから輸出されていた。この地には精霊信仰を中心とする土着の宗教が存在したが、ハイチへの入植にあたりフランス語の使用とカトリックへの改宗が強要される。しかし全く異なる言語と宗教を詰め込んだ結果、ピジンカトリックとでも呼ぶべき独自の信仰ができあがった。この混交信仰をブードゥーと呼ぶ。

ブードゥーには、屍者を操る秘法が伝わっている。具体的な儀式の手順について窺い知ることは叶わないが、「埋葬した屍体を掘り返し」「精霊を吹き込んで」操るのだという。そうして屍者は呪術師の命に従う物言わぬ従者となる。生者とは明らかに異なるゆっくりとした動き、疲れも痛みも知らず働き続ける存在。否応なしにフランケンを想起させるそれを、ブードゥーでは「ズンビー」と呼ぶ。

無論、1世紀も前のハイチに電気式の疑似霊素書込機があろう筈はない。従って、もし実際にズンビーが屍者化技術の賜物であるとするならば、それは現在の我々が知る技術体系とは異なる発展を遂げたものであろうと想像される。
幸いというべきか、当時この島には新鮮な屍体が豊富に存在した。主として酷使された奴隷の、あるいは逃亡の果てに死した元奴隷のものであったろうが、適切に扱われれば屍者は優に10年程度は保つ。
最初にマッカンダルが抵抗運動を開始した時、既に屍者化の技術が完成していたとしたら。そこからの数十年は、屍者を増産し軍備を整えるための期間であったとしたら。
あの時、捕えられた虚ろな呪術師は、本当にマッカンダルであっただろうか。6年の間、用心深く山中に潜み逃亡奴隷たちの集団をまとめ上げ、満を持して抵抗運動を開始した人物が、わざわざ単身敵地に乗り込み、あっさりと処刑されるような愚を犯すだろうか。それは実験を兼ねて、身代りに立てられた屍者だったのではないかと思わずにはいられない。

無論フランス軍の記録には屍者の群れに迎撃された旨の記録はないが、屍者技術の存在が知られていない当時の兵がそれを屍者として記録したとは考え難い。また熱病で朦朧とした兵も多く、たとえ報告があっても譫妄として無視された部分もあっただろう。そもそも艦隊を率いたのはナポレオンの義弟であり、呪術や怪物を敗因として報告するなど到底できよう筈がない。もっともらしい不可抗力として選ばれたのが当時よく知られた南国の熱病であった、というのは充分に考えられる話だ。
入植78万に対し生存は50万に満たない黒人奴隷たちの、30万体にもなんなんとする屍体資源がそこには存在した。その全てが利用可能な状態であったわけではないにせよ、1万かそこらの屍者の兵団を作り出す余地は充分にあっただろう。武器を持たずとも、1万の屍者の軍は銃砲で武装した3万の生者の軍と渡り合うに充分な戦力となった筈だ。

とまれ、ハイチの混血人層が遺した記録の中にはズンビーを対フランス軍に用いたと思しい記述が見付かるが、彼らもまたブードゥーの呪力を信仰する人々であったので、これが屍者を指すのか、それとも何らかの呪的暗示あるいは薬物によって痛覚の麻痺した生者などを誤解したものであったのかを判断するのは難しい。
そこで、ブードゥーの原型となった西アフリカの民間信仰を調べてみたい。

西アフリカの宗教伝播

ブードゥーそれ自身は自然界の様々な精霊を信仰するシャーマニズムの一種だが、カトリックの教化以前に少なからずキリスト教を含む複数の宗教からの影響を受けている。
ブードゥーの信仰地域に接して東側にはエチオピア帝国が広がっている。この国は12〜13世紀頃から続く正教会系の宗教国家であり、周辺地域への影響は少なくない。またかつては北アフリカにまでマニ教が伝播しており、そちらからの影響も見られる。
マニ教グノーシス主義の流れを組むが、フランケンシュタイン博士が最初の屍者を作り出した時、その研究内容にはグノーシス派の遺した資料が含まれていたとされる。些か根拠は弱いが、もしかしたら博士が到達したものと同様の、屍者への疑似霊素書込に関する何らかの技術がアフリカにも伝わっていたのではないだろうか。

かつて、フランケンシュタイン博士の足取りを辿り、屍者技術の源流を追ったロシア帝国の文献学者ニコライ・フョードロフはその源流を原初の人類アダムに求め、ノストラティック大言語仮説の示す中央アジアに比定したという。しかし私は別の仮説を提唱したい:進化論の示す、原始人類の発祥地である。
A.R.ウォレスの進化論によって、今日ではヒトもまた猿人から進化してきたことが明らかになりつつある。各地で発掘される原人の化石を比較すると、どうやらアフリカが最古の人類発祥の地と言えるのではないかと考えられている。即ち、エデンを追われたアダムもまたアフリカに至ったのではないかということだ。
アダムがアフリカに存在するのだとして、それが屍者とどのように関係するのかは解らない。しかし、何らかの関係があるのだとすれば、それがアフリカに伝わる屍者技術として今に残ったと考えるのは不自然ではあるまい。

とはいえ、本当にアフリカに独自の屍者技術があったとするなら、部族間抗争の著しいアフリカ諸国にあってそれらが戦争に供されなかったとは考え難く、そうであるならばアフリカは屍者の軍団を擁する強大な軍事国家としてアジア、ヨーロッパを圧倒しても不思議はない。しかし現実にそうならなかったということは、屍者技術が実際には存在していないか、あるいは何らかの要因で大量生産の効かない代物であったかのいずれかだろう。だとすれば、その流れを汲むだろうハイチのブードゥーでだけ独自の発展を遂げた原因を考えなければならない。

マッカンドルは奴隷となる前はイスラムについて学んだ学識の徒であり、大層弁の立つ人物だったという。そんな人物が一奴隷に身をやつした理由は不明だが、彼もまたフランケンシュタインやフョードロフ同様に広い知識を体系的に収集した人物であったのかも知れない。それが、結果として苦境にあって軍事技術として花開くに至った、と考えるのは空想が過ぎるだろうか?

終わりに

先に、刑死したマッカンダルは身代りの屍者ではなかったかと述べた。だがここで、もう一つの可能性にも言及しておきたい。マッカンダルが、敢えて自死を選んだ可能性である。
19世紀末から20世紀初頭にかけ、一部の国で「生者に疑似霊素を上書きする」冒涜的な屍者技術が密かに使われていたことが明らかになっている。当初からフランケンシュタイン三原則によって強く禁止され、戦後改めて厳しく監視されたが、これは即ちそういう行いが技術的には可能であることを示すものでもある。
もし、マッカンダルの用いたそれが同様の性質を持ったものだとしたら。実際には屍者を使うのではなく、あるいは屍者と平行して、逃亡奴隷自身を屍者化するものであったとしたら。それは苦渋の決断であったことだろう。来るべきフランス軍との全面衝突を乗り切るには他に手がない。しかしそのような行いを平然と行えるほどに図太い人物ではなかったとすれば、彼は敢えて自身を最初の被験者とすることによって、未来への贖罪と為したのではないか。そのように思えてならない。

屍者技術は軍事にせよ生産にせよ、ハイチを大きく成長させ得るものであった筈だ。しかし現実には、現在に至るまでハイチは財政面でも軍事面でも苦しい状況が続いている。これらも、屍者技術がタブーに触れるようなものであったとすれば納得がゆく。
独立戦争という大義なしには直視できない呪わしい先端技術はこの後破棄あるいは封印せざるを得なかったのだろう、結局島の内政はほとんど白人支配時と変わらぬ少数独裁的なものに戻ってしまった。