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ゾンビと倫理

屍者の帝国

伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」を読み終えた。

屍者の帝国

屍者の帝国


夭折した伊藤計劃の遺作、わずか30ページほどの書き出しと未完の構想メモを元に円城塔が書き継いだ「合作」。時は19世紀末、産業革命華やかなりし倫敦から話は始まる。日本で言えば江戸幕府が終焉を迎え、文明開化の真っ只中。丁度この時期のこの場所から、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングスティームパンク小説を合作したが、奇しくも同じ時代の同じ場所で同じ合作の形を取った本作もまた、「現実には存在しない技術が花開いた別の世界線」を描いている。そこにはディファレンス・エンジンに描かれるような解析機関の織り成す機械情報化社会までもが存在するが、その礎を成す技術基盤は蒸気技術ではなく、屍者技術である。

屍体にネクロウェアをインストールし、機械的労働力として利用する社会。つまり工業的ゾンビ技術の存在、それが「屍者の帝国」で最大の歴史改変だ。

ゾンビそれ自体はフィクションとしては珍しくない。何らかの労働力としての利用例すら、例えば兵力としてのそれはファンタジーではそこそこありふれた存在だ。が、社会基盤を成す機械労働力としてのゾンビ、というのはちょっと前例を知らない。

これを読む前に、ゾンビもの全般について思いを巡らせたことがある。その時気にしていたのは、主に「災害としてのゾンビ」だった。噛み付きなどによって感染するとされるゾンビという現象は、端的に言えば感染症の類だ。いや、その原理が病であれ呪いであれ他の何かであれ、現象としては接触感染性の病と見做すことができる。
病であるならば、発症者への基本的な対処は「隔離と治療」であって「殲滅」ではない筈だ。よしんば未開の地に於いては現実的な対処が虐殺という形の封じ込めであったとしても、少なくとも読者の所属している文明社会にあっては「生きている患者を感染封じ込め目的で殺害する」という行為を自治組織として正当化するわけには行かない。
もちろん、「ゾンビ」が既に死んでいるというならば話は別だ。が、通常ゾンビ化は「生者が連続的に変容する」形で描かれる。ならば現実的には、それは「病に冒されたことで外見や行動が変容した生者」ではあっても「動く死者」ではない筈だ。いや、仮にその生命活動が停止していると言える根拠があるのだとしても、そのことを確かめることは容易ではない:基本的には「動いているゾンビを解剖する」ことでしか得られぬ類の確証であり、それは「人を生きながらにして解剖する」ことになりかねない行為であるからして、公式に認定するわけに行かないのだ。
そういう「社会的に認知困難な状態で手をこまねいている間にゾンビ禍がどうアウトブレイクするか」といった辺りを中心に考えていたわけだが──

「屍者の帝国」では、ゾンビは病ではなく工業製品である。単に死者の脳にネクロウェアをインストールすることで、機械的にコントロール可能な肉体に仕立てているのであって、感染性はない。屍者には動作外見に特有の癖のようなものがあって、生者がそれを見誤ることはないので認知問題は生じない。
となれば、社会的問題は主に倫理の、とりわけ宗教上の問題になってくる。来たるべき死者復活に備え肉体が保存される建前を取り火葬を忌避する文明圏にあって、その死体を労働に流用し、就中兵役に用い損壊を許すようなことが可能かどうか。
まあそんな倫理的問題は、たとえば戦争のひとつもあれば吹き飛んでしまうものかも知れない。病理ゾンビの場合は純粋に認知ベースの倫理問題だったが、屍者の場合は技術ベースの倫理問題だ。そして、技術的に可能であれば倫理がどうあれそれはいずれ実践されることはご存知の通りで、特に経済的理由があるならば単なる実験に留まらず「実用化」されてしまう。
19世紀半ばからは世界的な戦争が相次ぎ、兵の消耗は無視できぬ規模に膨れ上がる。そんな折に「死なない兵」が技術的に可能であるとすれば、倫理的な問題など二の次で実用化されてもおかしくない。
そして、生身の兵は戦争が終われば国へ帰って職を捜すが、兵器として組み上げられた屍兵は他に流用が利かない。平時の防衛用に使われる分を除き、余剰分は破棄するか、あるいは維持費の支払いのために稼動させ続ける必要が出る。屍兵には戦争が必要で、かくして大規模な屍兵戦力を提供する傭兵団が各地の紛争を下請けする。屍兵の運用管理には相応のノウハウが必要で、それらを抱え続ける兵站コストは馬鹿にならない。ならば丸投げは合理的な選択だ。まあそれは可能性としては私兵が独自に紛争を煽る動機を与えもするわけだが。
同様に、冒頭で語られた言葉は半ばで否定される。自由主義経済の需要があれば、それを差し出す者がある、それぐらいの貧富差が世界には満ちている。厭な話だ。

そして、まあ当然な話として、死体を半自律的に動かす技術は何かしらの期待をもたらす。これもまた倫理的な一側面だが、病理的ゾンビではあまりこの類の思想が描かれない気がするのは不思議なところだ。死を望む者がいるように、ゾンビ化を望むものが登場するだろうことは容易に想像される筈なのだが。
もっとも、この方向性はそれこそ唯一神教的には触れ難い話題なのかも知れない。自殺さえも宗教的禁忌となる社会に於いて冒涜的存在ですらあるゾンビを「望む」ことのインモラルやいかばかりか。

幸か不幸か、この物語では人間以外の屍体が登場しない。恐らくはその先にもまた、倫理の壁が聳えている筈なのだが。