陰謀論の特徴

9.11米国同時多発テロの米国による自作自演説だの東日本大震災地震兵器による人工地震説だのアポロ宇宙船の月面着陸捏造説だの、世に陰謀論は尽きることがない。


しかし不思議なことに、こうした陰謀論が長いこと幅を利かせているにも関わらず、「一体誰がどの部分をどのように謀ったのか」について、見解の一致したためしがない。普通、初期状態がどんなに混沌としていようとも、研究を重ねるうちに事実と認められる部分とそうでない部分が判ってきて、大筋で合意を得た「事実と思われる部分」というのができてくるものなのだが、陰謀論にはそれがない。
例えば昨今話題の地震兵器陰謀論を見ると、おおまかに「電磁波による遠隔攻撃説」と「地下核爆発による近距離攻撃説」に分かれ、それぞれ「米国による攻撃」「日本による(あるいは日本が関わっている)攻撃」となっている。主体も手法もまったく違い、従ってその目的も異なるものと考えられる。
それはおかしいんじゃないか。陰謀だという証拠が何かあるのなら、それは主体を示すものか手法を示すものかのいずれかであった筈だ。ならば自動的に、もう一つの陰謀論は退けられている筈だ。しかし実際にはこれらが両立している。これはなにも地震陰謀論だけではなく、他の陰謀論についても同様のことが言える。
それどころか、排他的である筈の複数の説を一人の人物が、そのいずれもが真実であるかのように語ることさえ珍しくない!一体どういうことなのか。


どうやら、陰謀論者にとってそれぞれの陰謀論は単なる手段であるようなのだ。彼らにとっては、実際にどのような陰謀が行なわれたのか/それとも実際には行なわれていないのかには興味がなく、あるいはそれを誰が行なったのかにすら興味がなく、ただ単に「敵がいる」という事実だけがあれば良いということなのだろう。従って互いに相容れぬ筈の説も何の疑問も抱かず全て受け入れ、また説の一部が否定されてもその部分を切り捨てつつ無限後退に入り、陰謀の具体的内容そのものについては柔軟に変容させつつも「陰謀があった」という部分だけは頑なに守り抜こうとする。


敵を定めたいという欲求は何を意味するのか。
恐らくは、敵と戦う自分自身を正義と位置付けるために必要な行為なのだろう。敵が恐るべき陰謀を繰り広げる絶対の悪であれば、正義の絶対性が担保される。
あるいは、自分の理解を越えた事象を否定するために悪を必要としているのかも知れない。宇宙なんて人間が暮らせるような場所ではないから月になんて行ける筈がない。大地震が自然災害では怒りをぶつける先がないから陰謀である筈だ。自分が把握でき、非難できる陰謀の範囲に留めておけば安心できる。


残念ながら、実際に政府や企業の中では陰謀が巡らされることがあり、それらが実在するが故に話がややこしくなってしまっているのだが、何であれ陰謀は損得勘定に基づいて立案・実施されるものであるから、ちょっとコストやリスクなどを計算できる程度の想像力さえあれば陰謀の有無なんて判断できそうなものだ。
その辺を適切に判断するだけの知識を持ち合わせていないからこそ、簡単に陰謀論に染まってしまうのだろう。