人は労働から解放され得るか

無産主義者を自認する私としては、人は働かずして生活できるようになるべきだと思っている。そしてessa氏のヴィジョンはその方向性だ。対してyuyu99氏は否定的な見解を述べる。
私の見たところ、yuyu99氏は「労働による対価」の概念と「パイ全体の増量」という因習から脱することができずにいるようだ。

僕が夢見るひとつのよい社会とはどんなものか。それは、労働があまりできない人の生産性を、労働ができる人の協力によってできるだけ引き上げるような社会である。そうすれば、全体のパイが増える。そして、労働ができる人に協力的になってもらうためには、協力するときのほうが、協力しないときよりも自分の利益が高まる工夫がされなければならない。協力したがために、自分の能力を磨けないで、賃金が上昇しないといったようでは、協力する気が起こらない。

パイは無限に増殖しない。未開拓の市場がある場合、それを開拓し始めた当初は潜在需要を満たし切っていないから飛躍的な上昇を見せるが、まもなくシェア合計は一定値を保ち、同業他社との食い合いに転じる。
需要が頭打ちになれば、生産性をいくら高めても売れ行きは鈍い。余剰在庫は単価を下げ、それによりシェアがちょっとだけ変化するが、安価であることに見出される価値は限定的だ。だから、全体の生産性の引き上げは単に一人あたりの仕事量の低下、もしくは就業人数の削減に繋がるだけである。
つまり、大勢が働かない未来だ。

AがBに「宝をとってきて。そして少しわけて。」と頼んだとして、Bは宝をとりに行くか?このときの利得を表にして、宝の利得を10として、取りに行く苦労の利得を−2としよう。そして、宝が見つかった場合、BはAに3分けるとしよう。


この状況ならば、絶対にBは、Aに分けないという選択をする。そっちのほうが得だからだ。何もしないものに宝を分ける義務は、Bにはない。Aに分けようと思う動機に乏しい。あなたが好きな彼女や家族に、お金を使ってもよいと思えるのは、愛を対価として受け取っているからだ。対価を払ってくれないものに、ただで分け与えることは期待できない。もし、分け与える精神を強要するならば、それは抑圧的な社会であって、住みやすい社会ではない。

今までならばそうだったろうし、これからも当分はそうだろう。けれど、実際のところ「一生かかっても使い切れないもの」を持っているときに、それをケチって一人で囲うことにどんな意味があろうか。自分が満足ゆくだけ潤沢に使えるなら、それ以外の分は誰が使おうと構わない、そう考えることは不自然ではない。
問題は、企業というのもが原則として貪欲だということだ。企業は常に金を求め、ちょっとでも余分に儲けられる見込みがあればその為に大金を使う。従って「使い切れない」という状態が発生し難い。
だがGoogleはその転換をやってのけた。本質的に、彼らは考え方が企業のそれでない。だから儲けより楽しさを優先できる。彼らが金を集めるのは単に楽しさを維持するためであり、それが保証されるならば別に対価など必要ない。根本的に、労働者ではないのだ。


残念ながらすべての分野から労働をなくすことは当分できそうにない。まだまだ人手が必要な分野というものはある。けれどそれらも将来的には自動化されてゆくだろう。そうなったとき、労働ははじめて趣味になれる。すべての人が等しく苦行から解放され、純粋に趣味で研究し趣味で製造する世界に。
それは抑圧的な暗黒社会だろうか?