過去を扱う学問

「今では否定される部分の多い*1仮説」と「最初から正しくない仮説」を同列に語られても、といった話は既に何人も指摘しているだろうから別の話を。


古生物学分野というのは限られた情報のみを元に、類推を加えて全体像を補うことで成立している。従ってなかなか「定説」が成立せず、頻繁に「現在のトレンド学説」が変わってしまう。なにしろどの説も、「本物」を見ることが不可能であるために証明しようがないからだ。
こうした事情は過去の事象を扱う考古学や歴史学でも同様で、文字記録の有無など情報量に差こそあるものの、本質的に「見て確かめる」わけにいかないという事情では一致している。
確認不可能である以上、すべての説は「仮説」の域を出ない。確定した証拠からの推論により否定されたり補強されたりはしても、それ以上の「定理」のようなものになることはない。「確度の高い仮説」と「低い仮説」があるだけだ。
古生物学のような科学分野であれば証拠は物体だから、「どう解釈するか」については議論の余地があるものの、出土したものそれ自体は揺るぎない*2。対して、文字資料の場合はもっと厄介である。証拠それ自体が客観的で信頼できる資料ではない場合も往々にしてあるからだ。どの情報が真で、どの情報が偽なのか、まずはそれの分別から始めねばならない。その時に拠り所となるものは、一体何だろうか。
イデオロギーを拠り所とする限りは取捨選択にバイアスがかかり、歪んだ情報を得てしまう。けれど人はすべてのイデオロギーからは逃れられない。


かつて川端裕人竜とわれらの時代 (徳間文庫)の中で、古生物学の権威でありながら創造論に傾倒するアメリカ人学者を描いた。人口の8割がキリスト教徒であり(日本人の家に仏壇や神棚があったり初詣や葬儀で寺社仏閣を訪れるレヴェルよりも広く深く)信仰が生活に浸透している欧米では、科学者と雖も信仰と無縁ではない。
科学者が信仰を持つことを否定するつもりはないが、同時にそれが強固なイデオロギーであることも常に意識せねばならない。判断基準を神仏に委ねた瞬間、それは科学ではないものとなる。
この点では、普段の宗教的行為と信仰意識を切り離して扱うことに長けた日本人というのは、実は一番科学向きなのではないかという気がする-----その割には科学離れが進んでしまっているのだが。

妄想科学日報の人は何が人をニセ科学に向かわせるのかを全然分かってないように思う。

うん、まあそれはその通りだと思う。
例えば、「観測できることじゃないけれど、そこには確かなことがあるんだよ」というのは凄い安心するというのは正直なところまったく同意できない。いや、そういう人は多いのだろうけれど、その考え方が理解できないというか。
日本人の信仰意識が科学向きだろうというのは、「信仰と科学のどっちを取るのか」的アンヴィヴァレンツに悩まされることがないという意味で、「科学的だから変な宗教に引っ掛からない/ニセ科学に騙されない」ということではない。


ニセ科学の押し付けがましさには同意。キリスト教の科学貢献の側面については……やはり同意しかねる。あれは科学の成果物のうち教義に合うものだけを認定したのであって科学を発展させたわけではない。科学発展の礎は宗教とは無関係に発生している。

*1:単純な淘汰のみで進化が説明できるわけではないとか、そういった部分的な

*2:実際には、出土状況の誤認/捏造などによって証拠能力自体が揺らぐこともあるのだが