東京トイボックス

東京トイボックス 1 (モーニングKC)

東京トイボックス 1 (モーニングKC)

講談社週刊モーニングで連載中の「ゲーム開発」漫画。腕利きのキャリアでありながら社内の陰謀により零細ゲームメーカーに出向させられた女性と、大手ゲーム会社を飛び出しわがままを貫き通すクリエイターを軸に、営業と制作の対立を描く。
大変面白い作品だが、どうやらアンケート結果が思わしくなくいつ打ち切りになるか判らない状況らしいので、支援の意味を兼ねてここで紹介しておく。
とは言っても筋を描いてしまうわけにもいかないので、作中の印象的な台詞を引用しつつ感想を少し。

「やはりオレの作ったゲームはオレのツボをつく!!」(p43)

どうでもいい台詞のようだが大変重要な台詞だ。つくった本人が面白がれないゲームを他人が面白がるはずがない……いや、面白がって欲しくない。
自分だけが面白いゲームは単なる独りよがりだろう。しかし制作という行為は、本質的に独りよがりから始まるはずだ。

「一度できたのにできてない!?どういうことですか!?」
「どういうことってその-----えーと……何て言ったらいいんだろ」
(30秒経過)
「魂が違ったんです……」(p47-48)

ゲームに限らず、優れた作品には何かしら「魂」とでも表現するしかないものが宿っている。明示されない思想のようなもの。模造品では持ち得ないもの。
それを作品に宿すのが創り手の使命であり腕である。

「納期を守らせるのはあんたの仕事だ。だがオレの仕事はおもしろいゲームをつくること」(p56)

ビジネスとしては何よりも納期優先だが、クリエイションとしては何よりも質優先。結局はこの中間のどこかで妥協点を見つけなければならないのだろうけれど。
それをしなかったばかりに売り時を逃して散々な成績に終わったゲームがいくつもある*1。だがそういうゲームに限ってコアなファンを引きつけ、伝説として語り継がれるものだ。

「ゲーム誌のレビューってさ、ほとんどが無難に6〜9点じゃん」
(ここで1-10-2-1の評価)「コレ3年前のアイツのゲーム。今ボクに必要なのはこういうのだよ。ユーザーとなれあった続編なんてもうたくさん」(p129)

ゲーム誌の評価というのは往々にして政治的判断が絡んで正確でないという話がある。その辺りの真偽はともかく、発売前からヒットが確実視される予定調和のゲームなど大して面白いものではない。そつなく造られているから大きく外すこともあまりないが、結局いつも通りのことを繰り返しているだけでサプライズに欠ける。
99%がそこそこ楽しめるが1回プレイしたらもう「思い出」になってしまうようなゲームと、1%しか支持者がいないが繰り返し遊ばれるゲーム。どちらがより「面白い」ゲームだろうか?
ビジネスとしては圧倒的に前者が成功と言えるが、クリエイションとしては必ずしもそうではないだろう*2

「……こんだけ完璧な仕様書がついてんだ、あとは頭動かさねーで手ェ動かせ」(p160)

一番言われたくない台詞。
言ってみるならば仕様書こそが制作である。それがすべて外部で制作されるならば、残るは「作業」に過ぎない。
作業部分にも細かな創造性は内包されるが、それは制作の創造性とは根本的に異なる。
変な喩えだが、「選手の能力が高いから指揮しないで座ってろ」と言われた監督のような心境。それじゃ存在意義がない。

やっべーな〜、この感じはやべーよ
この「やらされてる感」
思考停止
安易な妥協に魂が食われてっちまうんだよな……

ここで妥協すれば仕事としては楽できるのは目に見えている。放っておいてもそこそこ成功するだろう。
だが、それに慣らされてゆくと最も大事なものを失ってしまう。

「ゲームの世界では単純作業を繰り返せば誰でも勇者になれる。
努力は必ず報われる世界でいいと思うんだよ。
でもアイツは、誰かに手を引かれて世界を救うような勇者ならいらないと言う」(p205)

一流の人間は皆どこかしらストイックで、マゾヒスティックだ。自らを鍛え上げ更なる高みに登ること、それ以外を意図的に排除し、そのためだけに苦行を課す。
ゲームに於いてもそれは例外ではない。敢えてゲームシステム以上の厳しい制限を課してプレイすることに喜びを見いだすものは多い。
わざわざそんなことをする理由は只一つ、既存のゲームが「ヌルい」からだ。
現在のゲームは多数の人間が関わり長い時間をかけてつくられている。その分コストが嵩んでいるから、沢山売れないと元がとれない。そのためにはなるべく広い層にアピールする必要がある。いきおいライトなユーザーにもプレイ可能な難易度に調整するため、ハードなユーザーにとってはどうしてもヌルすぎるバランスになってしまう。
誰でもクリアできるゲームではなく、クリアのために鍛錬を要するゲームであること。
別にすべてのゲームがそうあれとは言わないし、最初から鬼のような難易度であれとも言わない。だが、少なくとも1周を難なくクリアしてしまうような猛者に対する更なるしごきは必要だろう。


あるゲームでは、クリア後に数段階に分けて難易度を追加、地獄のようなゲームを味わうことができるようになっている。
またあるゲームでは、攻略情報誌付録のボーナスデータにハードモードよりさらに厳しい難易度設定の初期設定データを掲載したという。
いっさい誘導なし、完全ノーヒント(それどころか選択肢自体存在しない)でプレイヤー自身が考えることでしか進めることのできないゲームも存在する。
デフォルトで用意された機能だけでもゲームを進めることはできるが全く楽しめず、自分の手で極限まで研究することでしか面白さを味わえないゲームもある。
いずれもかなりプレーヤーを選ぶゲームだろう。だが、10年経っても(懐かしさで時々、ではなく)遊び続けられるゲームというのはそうしたゲームではないだろうか。
あなたは今やっているゲームを、来年も再来年も遊んでいるか?


ところでゲーム制作サイドの主人公の略歴、参加ゲームの中に「本格医療ミスゲーム「医者はどこだ」」とあるのが非常に気になる。どんなゲームだ。


2006-05-11発売の号で「第一部完」。取り敢えず2巻までか。続編を期待。

*1:例えばクーロンズゲートPlayStationの発表と同時に発表されたタイトルだが制作上のこだわりから発売は遅れに遅れ、世に出たときには既に有力タイトルが多数存在したために注目を受けることなく消えた

*2:昨今、コンシューマーゲーム市場は徐々に行き詰まりを見せ、代わりにオンラインゲーム市場が開拓されつつある。これはある意味で販売本数で評価される時代からプレイ時間で評価される時代に変化したと言えないだろうか