ググれ文化圏と教えて文化圏

モヒカンはmixiでもモヒカンだった - アソコがモヒカン族 - モヒカン族経由でmixiの「ググれ」コミュに於ける「ググれと一蹴するのは横暴な気がするのですが」トピックを読む。機種依存字で項番号を振るトピック作成者に対し、わざわざ項目に曜日を振って*1答える行為自体が「ググれ」と同じで無自覚な行為に対し注意を喚起する意図があるのだろう。


ここでの議論は平行線を辿っている*2ようだが、すこしばかり「どちらが合理的か」考えてみたい。


ググれ派の主張は大まかに言って(多分)以下のようなものだ。

  • 自己学習の上での質問ならば答えるが、そうでなければまず学習方法を学ばせる必要がある
  • 学習習慣の無いものに答えだけ教えると、頼り切りになって宜しくない
  • 学習を啓蒙することで「教えて」の割合を減らし、できれば彼ら自身教える立場になって欲しい

これをして「魚をくれというものに釣り竿の効果を啓蒙する」と表現しておられる方も。釣った魚を分けてやるのは簡単だが毎回そうせねばならなくなるのは困るし、自分で任意に魚を得られるようにする方が双方にとって幸福だと考える。非常に合理的だ。


大して反ググれ派(というより「教えて派」か)は、

  • 面倒は要らない。手軽に答えだけ欲しい
  • 罵倒されているようで不愉快
  • 教えてくれても損はない筈だ

要約の仕方が悪いのかも知れないが、なんというか自己中心的な感情論に思える。魚の喩えで言えば「自分で釣るのは面倒だから毎日貰いに行く」感じか。そういう人が増えると、そのうち魚の供給が消費に追いつかなくなる。


ググれ派の物言いには確かに刺が含まれることがあるだろう。それは多分に「教えて君が決して成長しない」という経験則に基づく苛立ちに起因するものだ。だから彼らは学習の意志を見せぬものに厳しく当たるが、意志のあるものには導き手となり、適切にヒントを呉れる筈だ。
彼らの言動に突き放されたと感じるのであれば、それはあなたがまだその階層に立つには早過ぎたからだろう。もっと下の世界で己を磨いてから再び挑まねばならない。


というようなことを書いていて思いついたことがあるので次エントリに書く。
幼い頃、両親に何か尋ねると「辞書を引くように」と言われた覚えがある。調べれば答えは載っているのだから手間を押し付けるなという意味でもあろうし、なんでも自分で調べる癖を付けろという意味でもあろう。そうしてみると「ググれ」は表現形式を変えただけで昔から行なわれてきたことなのであり、それが最近になって反発を受けるようになったのは教える範囲・聞く範囲共に広域化したことの現れということか。つまり自己学習という習慣を持って育てられていない層が教えを乞いに来た時、学習を前提として育った層と「文化的に」衝突するのだ。ああ、やっと文化圏の話が出て来た(笑)。

*1:Winユーザーが無意識に使う○付き数字をMacで見ると(日)(月)などと見える

*2:というよりググれ派が自己学習の合理性を説くのに対し反ググれ派は「厭ならスルーすりゃいいじゃん/ググれと突き放されて不愉快」という感情論で迫るので議論の仕様もない