酒蔵と女人禁制

「酒蔵が女人禁制であったのは差別ではないか」とする問いに、「女性は糠床を触るため酒蔵の菌に影響が出るから」と杜氏が答えた、という話がまことしやかに広まっている。
togetter.com
伝聞につき元発言者である杜氏の意図するところが差別性の否定であったかどうかは不明だが、少なくともTwitterの発言者は「女人禁制は差別にはあたらない」という意図でこれを書いたものと思われ、またTogetterまとめ主は明確にそれを意図している。
しかし、「差別にあたらない」とする理由としては些か納得しかねたので、ひとつ書いてみたい。

酒と発酵食品の関係性

発酵食品、たとえば酒やチーズ、漬物、ヨーグルトなどはいずれも微生物が重要な役割を担っており、製造所ごとの微妙な味わいの差もそうした常在の細菌叢の違いによって生じている。ここに「強い」細菌が持ち込まれると、それによって本来あるべき細菌が駆逐され発酵が失敗、場合によっては倉ごと終わりを迎えかねない事情があり、注意を払わねばならぬのは確かであろう。とりわけ納豆菌などは重大な禁忌のひとつだ。
しかしそれが「女人禁制」を正当化するか、という話になると少々込み入ってくる。

仮に「女性は糠床を触るため酒蔵の常在細菌叢に影響が出る」のだとして、じゃあ何故「女性だけが」糠床を触るのか、といえば「家事の一切は女の仕事」という認識のせいであろう。「男は家の外で働き金を稼ぎ、女は家の中で働き男の稼ぎによって『食わせてもらっている』」という認識の差別性は今更説くまでもあるまい。
「ゆえに女は酒蔵への立ち入りを禁ずる」のは、それ自体は直接的には差別的意図でなかったとしても、差別構造によってその必要性が維持されてきたのだとすれば、やはり差別のひとつではあろう。
まあ、(これが理由だとすれば)あくまで「日本社会全体の男女差別性」であって「酒造業の差別性」ではないので、もちろん「杜氏に女性を差別する意図があった」ということにはならない。

微生物による発酵という現象が解明されたのはごく近代の話であり、それまでの発酵は「こうやると何故かそうなる」という純然たる経験則の賜物である。チーズの青カビ/白カビや日本の醤油・味噌・酒などに共通するコウジカビあたりは目に見えるので認識があったにしても、糠漬の乳酸菌や納豆の枯草菌などを認識していたわけではない。したがって糠床の乳酸菌云々は、経験の蓄積があったとしてもせいぜい「なぜか女が蔵に入ると失敗する」ぐらいのところであり、明確に「女は糠床を触るから」と認識されていたわけではない。
そもそも現代のように多くのデータを集め因果関係を明らかにするような「科学的思考」など成立していない時代の話であるから、実際に「女性が立ち入ると失敗するから」であったかどうかさえ怪しく、糠漬と酒造(の失敗)にある程度の関係性があったとしても、「女人禁制であった理由」がそれであるとも限らない。
「女だけが糠床を触る」のが現代の視点では女性差別であろうとも当時の認識では当然のことであったのと同じように、現代から見た後付けの「合理性」が、実際に合理的理由から成立していたかどうかは怪しい。

だいたい、日本酒の醸造でも糠漬と同じく乳酸菌が主要な役割を果たすのだ。ならば酒蔵と糠床を行き来する女性の「持ち込む」乳酸菌は基本的に酒蔵のそれと同じ種であろうと考えられ、それが原因での失敗というのは可能性が低いのではないだろうか。もちろん、醸造の段階に応じて支配的な細菌種が変化するので「今このタイミングで乳酸菌はまずい」ということも考えられないわけではなく、それが理由だとする説を完全に否定するものではないが。

ところで日本の発酵食品といえば酒以外には味噌・醤油、納豆、漬物などが想起される。このうち「他の細菌よりも強い」納豆、「家庭で女性が扱う」漬物はさておき、味噌および醤油蔵に於いても女人禁制の決まりがあるのだろうか。
たとえばGoogleで酒蔵あるいは酒造かつ女人禁制で検索すると6万件強のヒットがあるのに対し、味噌醤油あわせても400件強と、酒と違って圧倒的に少ない。つまり「酒蔵には女人禁制のイメージが強くあるが味噌や醤油ではそのイメージは小さい」ようだ。無論これらは女人禁制があることもないことも意味しないが、どちらもコウジカビを用いた醸造には違いないのに、この差は興味深い。
何故そのような差が生じたのかを考えるに、恐らくは「神事」との関係性ではないかと思い当たる。

酒は古くから神事に用いられており、今でも神棚には神酒を供え、また酒造をそれ自体が神事となっている場合もある。
血を穢れと見做すことの多い神道では女人禁制が多く見られることは知られる通りだが、酒もまた神事としての酒造から女人禁制のイメージが強く存在したのかも知れない。
対して味噌は、奉納神事がないわけではないがごく限定的であり、醤油に至っては(元々は味噌の副産物であったためもあろうか)そもそも神事がない。
……ただ、本当に「神道からの影響」かどうかは断言できない。神道に女性が関わらないということはないし、神事に於ける酒造についても女性が関わる事例があるわけで、あくまで「そういう可能性もあるかも知れない」程度の話だ。

酒造と女性の関係性

上では神事との関わりから女人禁制に至った可能性を指摘したが、しかし実際のところ酒造が昔から女人禁制であったわけではない。
杜氏という男性職人集団による酒造りの体勢が成立したのは江戸時代に入ってからだ。米本位制経済制度の安定を目的に江戸幕府は酒造規制を乱発したが、その中に「寒造り以外の禁止」がある。
元々、酒は年に5回の仕込みが行なわれる年中醸造だった。しかし江戸初期にこれを冬の間のみに制限する寒造り令が出され、これを機に冬季の出稼ぎ職としての杜氏が成立するに至った。つまり、それまで酒は杜氏が造るものではなかったわけだ。
そもそも杜氏(とじ、とうじ)という言葉自体、元々は刀自(とじ)から来ている。これは現在では老女の尊称として使われる言葉であるが、元は戸主(とぬし)であったといい、家事一般をとりしきる主婦、あるいは宮中で台所をとりしきる下女を意味する。
ここからも解るように、酒の醸造は元々は女の仕事であったのだ。神事に於いても口噛み酒は巫女の役割とされるし、9世紀に出された律令である「養老令」を解説した令集解(りょうのしゅうげ)に於いても、造酒司(みきのつかさ)で酒を造る際には後宮から官女が出向くことになるとあり、古くは神事の酒も女性が司っていたことが伺える。
それが男の仕事へと変じていったのは江戸時代に入ってからのことであり、だとすれば酒蔵に於ける女人禁制の成立もまた江戸時代以降の新しい「伝統」に過ぎないということになる。それまで永きにわたり女性が関わってきたものが、近代になって男性の仕事になったことで女性が遠避けられたのであれば、その理由が「漬物の乳酸菌で醸造が失敗するから」といった「合理的な」理由であるとは考えにくく、むしろ「差別的な」理由であったと考えるのが妥当であろう。

まとめ

・「微生物のせいで醸造が失敗するから」女人禁制だという説は怪しい
・酒造りが男性の仕事になったのは近代のことで、伝統的なものではない
・酒蔵の女人禁制は神道方面からの影響かも知れない(が不明)

宗教的なことに合理的な理由を求めても仕方のない部分はあるが、食品製造業としての酒造が女人禁制を貫くようであれば差別的との謗りは免れ得まい。無論現代ではそんなことは行なわれていないはずで、過去にどうだったのであれそのころで現在に於いて非難されるべきではない。
ただ、「過去の女人禁制が合理的であり女性差別ではない」との見解に対してはきっちりと反論しておきたい。

SF評論とSF賞の関係について

SF作家、北野勇作氏が「SF評論はSF大賞の対象として相応しくない」旨の発言をし、


それにSF評論家、岡和田晃氏が「SF評論はSFでもあり評論でもある」という反論を行なった。

この一連の流れはそもそもが「SF界はSFゲームを正当に評価していない」という趣旨の記事がまずあり(それに対しては「SFマガジン等でもSFゲームを取り上げてるし、その記事内で『SFとして評価されるべきゲーム』として取り上げているそのタイトルについてはSF出版社からSF作家によるノヴェライズまで出てますよね」といった反論が為された上で)、「ゲームとは別に、SF評論がSF賞を(ほとんど)獲れないことへの批判もある」旨の発言を受けてのことであるのだが、


そこを踏まえて批判を試みたい。

この問題は2つの主題から成る:ひとつは北野氏の発言による「SF賞の受賞対象にSFそのものではないSF評論を含めるべきか否か」、次にその反論として為された岡和田氏の発言に基づく「SF評論はSFか」。

SF評論はSFか

これは「SF」の定義からしても、他の評論に照らしても、単純に「違う」と言ってよいと考えられる。

ご存知の通り、SFとは「Science Fiction」である。あくまでフィクションであることがSFの要点であり、科学をテーマに扱っていてもノンフィクションはSFではない。SF評論はフィクションを論じるが、それ自体がフィクションではないため、SFとは言えない。

評論が論じる対象そのものとは別カテゴリであることは、扱う範囲のもっと広い評論を考えてみれば自明だろう。映画評論は映画ではなく、自動車評論は自動車ではなく、建築評論は建築ではない。
もちろん「評論に見せかけたフィクション」を書くならば話が別で、たとえばスタニスワフ・レムの架空書評集「完全な真空」は評論ではなくフィクションのカテゴリで評価されることになるし、あるいはミステリ論をそれ自体にトリックを仕込んでみせることでミステリとしても成立させる、といった芸当は不可能ではないのかも知れないが、少なくとも「評論として評価する」こととは別の話だ。

SFの賞はSFのみに限られるべきか

これはまあ、結論から述べれば「その賞の取り決めによる」。
作品自体を評価する賞なのか作者を評価するのか、質的な評価なのか影響力への評価なのか。そういった「賞の性格」の中に、対象範囲の規定も含まれる。
たとえば映画賞の中でもっとも有名なアカデミー賞は映画にのみ与えられ映画評論を対象としておらず、映画評論は独立して映画評論家賞などが存在する。一方、文学賞でもたとえば野間文芸賞は小説家および評論家を表彰する。
ただ、「賞の規定がそうなっているのだから『現状では』SF評論が対象に含まれて当然」であることと、「そもそも賞がそのように規定されていることが適切か」はまた別の話ではある。

日本国内に於けるSFの賞としては現在、主に「星雲賞」「日本SF大賞」「センス・オブ・ジェンダー賞」の3賞しかない。うちセンス・オブ・ジェンダー賞は厳密にはSFそのものではなくSFの中で性を取り扱った作品を対象としており、SF全般を対象としているのは2賞だけである。言い換えれば、(冒頭に挙げた一連の文脈でも触れているように)そもそもSFというジャンルが包摂する範囲の広さに比してそれを評価すべき場が極めて限定的というか、確固たる「SF市場」として成立する範囲が狭いのだと考えられる。映画のように市場規模もその評価規模も大きなジャンルと異なり、「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅がないのだ。


また、日本SF大賞では当初より文筆以外の活動についても、「もし、他のジャンル、たとえば映像、漫画、SFアート、あるいは音楽などの分野にその年度においてきわだってすぐれた業績があれば、考慮の対象とする事を妨げません」とあり、実際に科学ものノンフィクションや作家など「SFではない」ものに特別賞を贈ってもいるのだから、評論のみをその範囲から除外すべき理由がない。

あるいは星雲賞日本SF大賞と類似しており一方の特色を強め他方との差別化を図る目的で敢えてそのように転換すべき、という論旨ならば考えられるかも知れないが、しかし実際には星雲賞日本SF大賞はかなり性格の異なる賞である。
これまでに星雲賞48回、日本SF大賞38回の中で両賞の受賞作品が一致したのは

の5作しかなく(うち1作は作品への受賞というより作者への功労賞というべきだ)、従って賞の範囲を敢えて変更すべき理由は見当たらない。
またファンダムの選出である星雲賞ではノンフィクション部門・自由部門はあっても評論が受賞した事例はなく、この点から見ても、日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまうと言えるだろう。

追記:「SFとしてのSF評論」およびSF評論賞について

このエントリおよび一連の発言について、岡和田氏から言及を戴いた。批評という分野そのものに理解が浅いため追い切れない部分もあるが、私に可能な範囲でまとめるならば、

  • ものごとを突き詰めてゆくと境界自体が揺らぎ、定義は曖昧になってゆく
    • 「SFはフィクションだがSF評論はノンフィクション」と言えるほど明瞭な区分ではない
  • 北野氏は自身も日本SF大賞の選考委員を務めたことがあるにも関わらず評論への理解が浅い

ということになる。
「SF評論もまたSF」とまで言い切れるかどうかはさて措くとしても、いみじくも選考委員たる者がその点に無理解であって良いのかという批判は尤もであろうし、その前提あっての「SF評論もまたSF」発言という背景を踏まえると、我々一般のSF読者が考えるほど軽々に自明なものとして退けて良い議論ではない、とは言えよう。

しかし一方で、これは自身の不明を恥じ入るばかりであるが、日本SF大賞と同じく日本SF作家クラブが選考する「日本SF評論賞」が存在しており、つまり"「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅"はちゃんとあり、そして"日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまう"わけではなく日本SF作家クラブ自身が別の場でその評価を打ち出していることを踏まえるならば、「日本SF大賞からは」SF評論を除外すべきとの北野氏の私見もまた故なきものとは言えないことになる。
(ただし日本SF評論賞は新人賞であり継続的なSF評論の選考を目的とした賞とは言えず、また現在は休止されているため、実質的にSF評論を評価できる場が他に存在していないという認識もまた正しい)

火星から月へ:アンディ・ウィアーを読み比べる

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

オンライン自主掲載から映画化にまで至った超新星のようなデビュー作「火星の人」の作者アンディ・ウィアーの新作「アルテミス」を読み終えた。今度は月面都市の話だ。

最初に評価を伝えておこう:B+、悪くはないが期待を下回る──前作があまりに最高だったので。

正直なところ、前半(今回は最初から上下巻に分かれての刊行なので、上巻ほぼ丸々)は些か退屈だった。主人公の女性がどういう人物でここがどういう場所なのか、それを描くことに序盤は費される。もちろんそれは必要なことなのだけれど、空気がなく重力が弱い月面で生活するためのドームという環境と、地球各国からの干渉が少なく法的拘束の緩い自治都市という社会、敬虔なムスリムである熟練の溶接工を父に持つ奔放な運び屋/密輸業者の娘という異世界を説明するために本題に入るまでに結構な分量が費されてしまう。このあたり、いきなり嵐に遭遇し火星に取り残されるというホットスタートから始まる前作とは対照的だ。
状況が動き始めてからの面白さは充分で、下巻は一気に読み切った。しかし上巻がなかなか進まないので全体評価はどうしても低めになる。

読みにくいのはなにも序盤の展開が遅いからだけではない。「アルテミス」は全体が主人公の一人称視点で書かれているのだが、地の文が頻繁に「読者に向かって語りかけて」きて、その部分と他の部分とで口調が変わるのだ。基本的にはだ・である調なのに、ところどころにです・ます調が混ざってくる。たとえば──

ではどうやって時間をきめているのか?ケニア時間を採用しています。ナイロビで午後だから、アルテミスも午後。

翌朝、目が覚めると、豪華で寝心地のいいベッドのなかだった。
いえいえ、誰ともいっしょじゃありません。エロいことは考えないように。

こういうのが所々に挟まってくる。その上、主人公はわりと口が悪いのだが、その多分スラングな表現についても、どうもピンと来ない。
これらが原文の表現自体の問題なのかそれとも翻訳の問題なのか、私には判別のしようもないのだが、しかし前作でそのような読みにくさを感じた憶えはなかったので、もしかして訳者が変わったのかと思わず調べてしまったぐらいだ。

「火星の人」も主人公の一人称視点だったが、マーク・ワトニーは科学者なので地の文も理知的で読みやすく、文体も安定していた。「アルテミス」では、どうも作者が想定する「頭はいいけど育ちが悪い女の子」のイメージと訳者のそれがうまく噛み合っていないような印象を受ける。どちらが主因なのかはわからないが、それが作品の魅力を若干削いでしまっているように感じられる。

とはいえきちんと考察された物理・化学・工学的描写や、工夫で困難を乗り越えてみせるくだりは流石のアンディ・ウィアー、ついでに「専門外の見落としによるインシデント」までもが健在だ。「完璧な人など居らず完璧な計画などない」のが作者の哲学なのかも知れない。

前半を退屈に感じたなら、「それでも読む価値は充分にある」と申し上げたい。ただ、「初めて読むならまず『火星の人』を」とも。

火星の人

火星の人

女性専用車両について考える

女性専用車両に対する反対運動が度々話題になる。が、何を不服として反対しているのかがイマイチよくわからない。
何が不満で、どうなれば満足なのか。いや、反対側運動なのだから廃止を目的としているのだろうとは思うのだが、「なんのために」廃止したいのかが見えてこないのだ。

女性専用車両とは何なのか

古くは戦前から何度か「ご婦人専用車両」の導入例はあったが、それらは主に過度の混雑から弱者を保護する目的であったのに対し、近年の女性専用車両は(弱者保護の目的もあり、小学生以下の男の子や体の不自由な人とその介助者なども乗れるとアナウンスされているが)明らかに女性の痴漢被害対策という意味がある。

独自調査、痴漢検挙の82%が鉄道内だった! | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 では警視庁からの開示を受けてデータをまとめているが、これを見ると一般に痴漢としてイメージする行為のうち「体に触れる」については8割近くが電車内で発生していることがわかる。男性が(原則として)入らない空間を設けることは、接触性痴漢被害の発生しにくい状況を成立させるための簡便な手段として充分な効果が見込める方法と言えるだろう。
一方、「盗撮」についても駅構内で4割超と高いものの、こちらは階段・エスカレーターなどで狙われることも多いと思われ、単純な対策はなかなか難しい。それでも車両単位で分けると待機列も分かれることになるので、待っている間に盗撮されるようなことは少なくなるかも知れない。
上記のデータによると3年間での電車内被害総数は3262件、1年あたり平均1087件ということになる。
一方、痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ によると「大規模都府県(東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、大阪府京都府兵庫県のことだそうだ)警察において電車内の痴漢行為で検挙・送致された者」は1ヶ月のうちに219人にのぼり、7都府県に均等に分かれたとすれば31人ほどが検挙されたことになる。被害者数91人/月に対し31人の加害。
(なお同記事では女性の「被害にあった人数/届け出た人数」には10倍の開きがあるとも)

ともあれ、痴漢対策としての女性専用車両には充分な意義がありそうだ、ということはわかった。

女性専用車両の存在意義が確認されたところで、では反対意見について考えてみよう。
とはいっても私自身が反対派ではなく、反対派を身近に知ってもいないため想像を元に書いている。そのため当事者から見ると「それは違う」という部分もあろうかと思われ、その節はご指摘頂きたい。

男性すべてが犯罪者扱いのようで気分が悪い

女性専用車両は痴漢犯罪の発生を抑えるために男性を一律排除するというやり方を採った。見ようによっては「男性を犯罪者予備軍と見る」とも言える。そりゃ気を悪くもしようというものだ。
だがちょっと考えて欲しい。

  1. 痴漢はほとんど男性である
  2. 痴漢被害者はほとんど女性である
  3. 痴漢する男性と痴漢しない男性を分ける方法はない

という条件下で、痴漢被害を抑えるために取り得る方法は「女性と男性を分ける」以外になく、「男性が気を悪くする」と「女性が被害に遭う」とでどちらが深刻であるかを考えれば、最適解は自ずと明白になるはずだ。
女性専用車両は「男をすべて犯罪者扱いしている」のではなく「男と犯罪者を区別できないので被害者を守る方を優先する」ものに過ぎない。鉄道事業者にとって重要なのは被害を減らすことであって、犯罪者を見付け出すことではないのだ。

男性専用車両も用意されるべき

女性専用があるなら男性専用もあるべき、という平等論。そもそも女性専用車両がなんのために登場したのかを考えていない発言と言える。
女性専用車両は女性を優遇するサービスではなく、被害を抑制するための保護策である。被害が(0とは言わぬとしても対策を要するほどでは)ない男性を満足させるためだけにサービスとして男性専用車両を設けるべき理由がない。

これについては反論として女性から男性への「痴漢冤罪」が挙げられることがあるが、対策を要するほどに件数があるのだろうか。
痴漢冤罪数あるいは冤罪率を明らかにするデータがないのでなんとも言えないが、前述の 痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ には「裁判で冤罪を主張した事例」は年間200件ほど、実際に無罪となった事例は(痴漢冤罪が話題となった2000年の事例で)8件とある。
同じ資料から大規模都府県の検挙数で考えると、年間2500人ほど(各県で360人程度)が検挙され、うち8%ほど(県あたり30人弱)が事実を争い、そのうち4%ほど(県あたり1人程度)が冤罪と認められたということになる。
都内の年間痴漢被害数が1000を越えるところ、冤罪数が1ぐらい、ということは「痴漢被害抑制のためには女性専用車両を導入するが、痴漢冤罪被害抑制のために男性専用車両を導入しない」という鉄道会社の判断はおよそ理性的であろう。

男は死ぬほどの混雑を我慢しているのに

そもそも通勤ラッシュ時の死ぬような混雑自体が問題なのであって、その責は鉄道事業者よりも同じ時間帯に一斉出勤を求める企業側にあるのではないかと思うが、それはさておき「女性専用車両は快適」なのかどうか。
これについては「女性専用車両の乗車率」自体がデータとして見当らないのではっきりしたことは言えないが、一例として横浜市営地下鉄女性専用車両乗車率についての証言を。
女性専用車両の利用状況ってどんな感じ?[はまれぽ.com]
これによると2012年時点で「現在では区間により多少乗車率に開きはあるものの平均で130%になっています。一般車両のラッシュ時の平均乗車率が125%なので、一般車両よりは女性専用車両のほうが混んでいるという状況」と、大きな差はないものの女性専用車両の方が若干混雑しており、少なくとも「女性専用車両だけが空いていて快適」とは言えないことがわかる。

男性だって乗っていい

「男が女性専用車両に乗ってはならない法的根拠はない」「同じ運賃を払っているのに男だけ乗れないのはおかしい」
これらは典型的な論点ずらしである。一見すると男性の被る不平等を訴えているようにも思えるが、女性専用車両に乗れないことで受ける具体的な不利益については示されない。
実際のところ、真の意図は不利益の是正などではなく「女性専用車両の実質的な無効化」なのだと思われる。気に食わない理由は別にあり、しかしそれをストレートに開陳すつことは憚られるために「不当な運用である」ことを訴え存在を有耶無耶にしてしまいたい、という行動であろう。

なお法的には、女性専用車両の目的を考えれば男性の乗車を拒むことには充分な正当性があり、私人である鉄道事業者の裁量範囲と認められるとの判例もある。
女性専用車両の違法性を否定した事例(消費者問題の判例集)_国民生活センター

また運賃については「同じだけ払っている」ことを根拠に等しい権利を主張するならば逆に子供料金や障害者割引など運賃の割引を受けた人は権利が制限されることになってしまうが、無論そんなことはない。いずれにせよそこは鉄道事業者の裁量範囲であり、「不服があるなら利用するな」ということになる。

悪意

これは当初すっかり失念していた……というか、意義を考える上では完全に想定外だったのだが、どうやら批判などではなく「純然たる悪意に基づく」嫌がらせのケースを想定しなければならないらしい。つまり「女性を/(女性に便宜を図る)事業者を困らせる」こと自体が目的であるというパターン。
上記判例でも、「健常な成人男性も乗車することができる旨をあえて掲示せず」とあり、法的には「女性専用車両には実は男性も乗れる」ことが否定されているわけではない、という辺りを根拠に強行しているようなのだが、しかし嫌がらせ目的である時点で営業妨害には問えるわけで……
普通に考えて、悪意に基づいて行動することに賛意が得られるとは思えないのだが、どうも彼らの中では「男性も乗れる」ことを周知すれば当然みんな乗るようになり女性専用は有名無実化するのだ、という理論があるらしい。

暴力被害の男女比を考える

「女性だけの街」という発言が話題になった。賛否はともかく、女性が日常的に「男性からの暴力被害を恐れている」ことを浮き彫りにするものではあったと言えよう。
これに対し、法務省の発表している平成29年版 犯罪白書などを元に「男性の方が倍ぐらい被害に遭いやすく、女性の危機感は幻想」といった反論が見られたのだが、些か論旨が乱暴に過ぎるように感じられたため、少し検証してみることにした。

暴力被害の男女比を計算する

犯罪被害の男女比はこのようになっている。

実際の犯罪発生率それ自体ではなく体感的な「危険性」について考える場合、重要なのは「危害を伴うかどうか」だろう。即ち、この表のうち「窃盗」「詐欺」「横領」に関しては主に金銭被害を生じせしめるものではあっても直接的な危害を生じせしめるものではなく、「危険性」の面からは無視して良いと考えられる。
残る「殺人」「強盗」「強姦」「暴行」「傷害」「脅迫」「恐喝」「強制わいせつ」「略取誘拐・人身売買」について、まずは男女比を見てゆこう。
暴行と傷害はどちらも暴力でもって物理的に相手に攻撃を加えんとした場合であるが、法的には「暴行」はさしたるダメージを与えなかったもの、「傷害」はダメージを与えたものを指すそうだ。
脅迫と恐喝はどちらも言葉でもって精神的に相手を脅し強要した場合であるが、法的には「脅迫」は本人や親族等に対する危害を予期させるもの、「恐喝」は金銭を脅し取ったものを指すらしい。
強制わいせつと強姦は、法律上は強姦が女性器に対する行為のみに限定されているため、被害者が男性の場合や女性器以外への性的強要などは強制わいせつということになる。
これらは分ける意義が薄いため、ここでは合算して示した。

犯罪種別 男件数 女件数 男比率 女比率
殺人 513 376 58% 42%
強盗 1314 797 62% 38%
暴行・傷害 34240 21938 61% 39%
脅迫・恐喝 3596 2182 62% 38%
強姦・強制わいせつ 247 6930 3% 97%
誘拐・人身売買 40 188 18% 82%
合計 39950 32411 55% 45%

こうして見ると、個別の割合としては性的被害および誘拐・人身売買については圧倒的に女性の被害が多く、それ以外の暴力的被害ではおおよそ男女比6:4程度となっていることがわかる。
どうだろうか。総数としてはたしかに「女性の方が危険性は少ない」と言えるのだが、しかしそれほど大きく差が出ているわけでもない。

この差を生じる要因は複数考えられるが、単純な性差あるいは肉体的な差のみでは語れないように思われる。
たとえば暴力的行為が「自分より強そうな相手よりも弱そうな相手を狙う」といった傾向がある場合、恐らくは男性より女性の方が狙われやすくなるだろうと考えられるが、実際には男性の方が多い。また強盗のような、特定人物を狙った行為ではない偶発的被害であってもやはり男性の方が多い。これはつまり、「男性の方が外に身を置く時間が長い」ために犯罪被害遭遇率に差が生じているのではないだろうか。

たとえば内閣府男女共同参画局による統計資料を見ると、就業率は男性の方が1.5倍前後多いことがわかる。これは男女の被害が(性的被害以外では)6:4と男性が1.5倍ほど多くなることと凡そ符合しているように思われる。

つまり、ほとんどの暴力的被害については「就業割合の差などから男性の方が女性より外出傾向が高いために結果として暴力的被害に遭遇する可能性が高い」だけであって実際の被害率には大きな差がなく、一方で性的被害および誘拐・人身売買では明白に女性のみが突出して高い、という事実を総合するに、「実際に女性の方が危険性が高い」のではないかと考えられる。

加害の男女比を見る

法務省の統計には加害者の男女比も掲載されている。これを見ると、男性の犯罪は(上で暴力的危害ではないとして除外した)「窃盗」「詐欺」「横領」で50%弱、残りの、つまりおおよそ暴力的危害を加えたと考えられるものが50%強とほぼ半々となるのに対し、女性の場合は84%が暴力的危害ではない犯罪であり、暴力的な加害は16%程度に留まる。単純な割合で言えば男性の方が女性よりも3倍以上、暴力を振るうということになる。

まあこれは比率であって絶対数ではないのだが、しかし上述の就労割合の差による「他人との接点」の数的差を考えるに、その絶対数的差はむしろ3:1×3:2=9:2ほどにまで拡大すると考えるべきではないだろうか。更に言えば男女の人口比はおよそ105:100と若干ながら男性の方が多く、それらを総合的に勘案すると「男性は女性の4〜5倍ほど暴力加害が多い」ことになる。

男女の被害件数比

今度はグラフを少し変えて、男女それぞれに「被害総数に対する各被害の比」を見てみよう。

男性

犯罪種別 総数 比率
殺人 513 1%
強盗 1314 3%
暴行・傷害 34240 86%
脅迫・恐喝 3596 9%
強姦・強制わいせつ 247 1%
誘拐・人身売買 40 0%
合計 39950 100%

女性

犯罪種別 総数 比率
殺人 376 1%
強盗 797 2%
暴行・傷害 21938 68%
脅迫・恐喝 2182 7%
強姦・強制わいせつ 6930 21%
誘拐・人身売買 188 1%
合計 32411 100%

男性は圧倒的に暴行・傷害が多く、また脅迫・恐喝の比率がやや高い。
対して女性は、男性では合計1%しかなかった強姦・強制わいせつと誘拐・人身売買を合わせて22%にも達している。強姦・強制わいせつがほぼ男性による加害であろうことは言うまでもない。
仮に強姦・強制わいせつを除いた暴力加害が男女分け隔てなく均等に分布しているとすれば、女性に対する男性からの加害割合は更に偏る。

まず、男性からの加害と女性からの加害をパーセンテージで見ると、前項「加害の男女比」での仮定より82%:18%程度となる。
被害の男女比55%:45%より、男女に均等分布とすれば

加害\被害 男性 女性
男性 45.1% 36.9%
女性 9.9% 8.1%

となる。
しかし女性に対する被害割合である45%のうち強姦・強制わいせつの21%、つまり被害全数の約10%は男性のみからの加害と見做せるため、その分を全体から抜いて割合を計算し直さねばならない。均等分布であれば男女5%づつであったはずの分が0:10%となることで男女被害割合も5%づつ増減が生じてしまうため、帳尻を合わせる必要がある:男→女が10%増加したということは逆に女→男を10%戻さねばならないはずだ。
つまり均等に割り振るべき分は男性加害72%:女性加害8%、それに男→女10%と女→男10%を加えると、割合は次のように変化する。

加害\被害 男性 女性
男性 39.6% 42.4%
女性 14.4% 3.6%

1%ほどの丸め誤差が生じたが、だいたいこれぐらいの比率だ。
男性被害では男女比2.75:1であるのに対し、女性被害は11.8:1にも達しており、「女性が男性を警戒する」理由を裏付けている。

持続可能な漫画読み放題の可能性を探る

漫画の違法共有サイトが話題である。
実際に覗いたことがないので伝聞になるが、「既存の合法的な電子書籍/Web漫画誌などよりも使いやすい」のだそうで、無料で気軽に人気作品が多数読めることから出版業を大きく圧迫しているようだ。
無論、国内の著作権法からすれば完全に違法行為なのだが、(事実かどうかは不明ながら)「日本の著作権法が及ばない国外にサーバを置く」ことにより取り締りを逃れているようで、対処が難しい。
また、仮に閉鎖に追い込むことが可能であるとしても、同様のサイトが出現し続けるいたちごっこになるだろうことは想像に難くない。利益が見込めれば手を染める者は必ず出現し、無料で読みやすければ非合法性など気にしないユーザは少なからず存在し、「みんな読んでる」となれば心理的な敷居はぐっと下がる。
となれば、「同程度に使いやすい合法なサービスを提供する」ことで非合法サービスの利益を下げるしかないだろう。

というのは例えば日本では知られていない海賊版の新潮流 – P2Pとかその辺のお話Rでも触れられているし、また出版社都合による絶版漫画を作者と読者へ還元する「絶版マンガ図書館」などを運営する赤松健の提唱する「電子書籍YouTube構想」なども、手法の差こそあれ目指すところは似たようなものだと思われる。

で。
問題は、「それって可能なの?」だ。
なにしろ版元は「原稿料、出版社人件費、印刷費」などのコストを賄わねばならぬのに、違法サービスはそこを「成果だけを盗む」ことでコストカットすることによって広告収益だけで黒字を叩き出している(と推測される)。果たして勝負になるのだろうか。

違法共有サイトと既存の合法サービスを比較する

合法的に多数の漫画が読めるサービスといえば、まずは電子書籍だろう。KindleやeBookJapanなど複数の電子書籍サービスが存在し、(一部の電子書籍を提供していない出版社を除き)大半の新刊漫画が読める。各巻購入だけでなく定額読み放題(ただし全作品が対象ではないが)もあり、比較対象としては適切だと思われる。
ただ、使い勝手には色々と難がある。私はほとんどKindleしか利用経験がないが、購入した作品の管理機能は貧弱で、読み終えた巻の続きを開くことすらできず、またブラウザ上で読むには購入作品個別ページの「今すぐ読む」あるいは購入済み作品一覧の「アクション」ボタンから「今すぐ読む」を選択、と少々手間がかかる。
また、未だ電子書籍は全作品を網羅するには至っていない。あくまで版元がデータを用意してこそなので、マイナー作品や古い作品などについてはカバー範囲が足りないし、電書化の遅い出版社などもある。また帯やカバー裏のおまけ印刷、限定配布の特典などまでは付いていないことも多い。

違法サイトに勝てるところまで引き上げようと思えば、「出版業界全体が協力し作品を網羅する」「印刷販売したデータは原則すべて取り入れる」ぐらいは必須、また作品管理機能を大幅に改良し、ブラウザから直接読むにも専用アプリを使うにも手間を抑えて「楽に読める」「続けて読める」ことに気を配らねばなるまい。

獲得すべきユーザ数

Netflixなどの少額固定料金制動画サービスが違法な動画共有の需要を低下させたように、有料であっても少額固定料金ならば無料の違法サイトとの競争に勝てる可能性はある。しかし、気軽に支払える金額を考えると、月あたり1000円がひとつの上限だろうと思われる。
ということは、サービスにかかるコストを計算し料金で割れば、「黒字に転換するために獲得せねばならないユーザ数」が割り出せるはずだ。
つまり問題は「コストをどう見積るか」だということになる。

漫画にかかるコストというのは大雑把に言えば「漫画家への原稿料」「出版サイドの人件費」「印刷・輸送費」といったところだが、今回は紙での出版ではなくオンラインでの出版を前提とするので印刷・輸送費はなくなり、代わりにサーバ運用およびシステムの開発/償却費が加わることになる。

原稿料はいくらであるべきか

まずは「漫画家が食べていくために必要な金額」を考えよう。
スタッフを1名雇い家賃7万円のアパートで漫画を描くために必要な金額|佐藤秀峰|noteによれば、「東京都の最低賃金でアシスタント1人をフルタイムで雇うと」年間350万前後。それに仕事場の家賃などを鑑みるに年間売上が最低でも720万ぐらいは必要と考えられる。
すると月あたり60万、連載が月30ページだとすると1ページ2万円、というのが「最低限必要な原稿料」の水準ということになる。
実際には(雑誌によっても作家によってもピンキリだが)マイナー誌の新人ではページ単価が8000円を下回ることも珍しくなく、Comicoなどでは週刊連載で「1話あたり5万円」(それも売れ行きに関係なく固定、全話フルカラー、しかもWeb掲載と単行本化とでフォーマット変更)などという安さだったりするが、ともあれ「理想的には」最低金額でページ単価2万を確保したい。
従って、今考えている「合法で漫画読み放題」サービスに於いても掲載原稿料は2万円として計算してゆく。

雑誌数から原稿料の総額を見る

すべての漫画雑誌に於ける原稿料の合計金額を見るためには月間あるいは年間の雑誌の総ページ数を調べる必要があるが、寡聞にしてそのようなデータは知らない。なので、大雑把に見積る。
漫画雑誌の数は、2014年に400誌、2026年には500誌を超える見込み - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明に拠れば、2016年時点での漫画雑誌数はおよそ500誌にも上るのだという。まあこれは2010年時点での予測値なので実数との一致程度についてはわからないが、ひとまず500という数を採用しよう。
1誌あたりのページ数は雑誌によってバラツキがあるが、一例として週刊少年ジャンプを挙げれば1号あたり450ページ、作家数25人ほどのようだ。
また雑誌は週刊から季刊まで発行間隔に著しい差があり、構成比も不明であるからページ総数で考えるのは困難と言える。
上でページ数ではなく作家1人あたりの必要売上を考えたので、ここでもそれを基準として、ひとまず1誌あたり25人/月×60万円=1500万円を想定しよう。すると500誌合計で75億円/月ほどかかる計算となる。
ただしこれは原稿料2万円を最低基準としての話だからベテラン作家などではもっと高くなり、80〜90億円ぐらいかかるのかも知れない。

編集部の人件費

各誌で編集部の人数も収入もバラツキがあるだろうが、ひとまず作家数25に対し編集者1人あたり2人を担当するとして12.5人、平均年収600万とすると月あたり625万円ほど。×500誌=31億2500万/月。

サービスの運用費

これは、正直ぜんぜん経験がないので読めない。かなり大規模になりそうだけど、開発費用で30億ぐらい見ておけばいい?ぜんぜん足りない?5年間で償却されるのだとしたら月あたり0.5億。
サーバの費用もわからないが、Amazon EC2の16Xlargeあたりを見ると$7778.15/月となっている。80万円ぐらい?これひとつ分で足りるんだろうか。

総計

だんだん算出がいいかげんになってきているので本当にこんな金額で大丈夫なのか色々と不安はあるが、ざっくりと120億円/月ぐらいということにしておく。

損益分岐のユーザ数

上述の通り、ユーザ1人あたり利用料金は1000円ということにしたので、120億円を賄うためには1200万人のユーザが必要ということになる。
これがどれぐらい難しい数字かというと:恐らく日本で一番発行部数の多い週刊少年ジャンプが200万部なので、その6倍である。もちろん、あらゆる雑誌を統合しているからジャンプの購買層と重ならない別の雑誌購買ユーザなどを合算可能ではあるが、それでも最多の6倍というのはかなり無茶ではなかろうか。

広告収入

恐らく「敵」もやっている広告収入。漫画雑誌の場合は掲載位置ごとに料金が決まっており、週刊少年ジャンプの例では80〜350万円ぐらい。何枠あるのかはよくわからないが、平均200万円で20枠ぐらいあるとすれば1号あたり4000万円ぐらいの収入ということになる。
サービス全体としてはジャンプの6倍を誇るユーザがいるのだとして、その広告価値がどれぐらいになるのか、よくわからない。しかし外部の広告サービスに任せるのでなく独自運用するならば、読者ごとの閲覧履歴などからレコメンデーションされた「ユーザの嗜好や今読んでいる作品に合わせた」広告表示などによって価値を高めることは可能になりそうだ。
仮に1作品1広告表示、1pvあたり1円、1ユーザ平均10作品/月だとして1億2千万円……これだけでは費用の1%ぐらいしか賄えていない。ううむ、難しい……

単行本

月額固定料金で読める範囲を、あくまで「雑誌」であるとしよう。毎回読めるのは単話のみ、2〜3号もしくは2〜3ヶ月分程度は遡れるとして、それ以降は読めなくなる。こうすれば、定額とは別に単行本販売で利益を上げることが可能になる。
ただ、これは「無制限に読める」違法サイトとの競合に於いては諸刃の剣でもある。

あるいは、「読める範囲を制限しないが、オフラインで読むためのダウンロードデータあるいは印刷物の所有は有料」という手もあるだろう。その場合、元々定額で無制限に読めるのだから、データはDRMなしでも問題なく、文字通り「所有」させることが可能になる。

クトゥルフ神話TRPG人気の謎を探る

TRPGで今、クトゥルフが人気である。
たとえば2016年時点のコミケTRPGジャンルを見ると、クトゥルフが他タイトルに7〜10倍の差を付けている。
togetter.com
ニコニコ動画でのTRPGリプレイ系動画などを見ても、「クトゥルフ神話TRPG」タグの付いた動画の本数は「TRPG」タグの総数を上回る(つまりTRPGタグのない、個別タイトル動画がかなり多いということなので全数に対する割合が見えるわけではないが、勢いは伺える)。
その他いくつかの状況証拠からも、現在のTRPG界隈に於いて最も勢いのあるタイトルが「クトゥルフ神話TRPG」であることは疑いようがないのだが……正直なところ、ロートルTRPGプレイヤーにしてみればこの状況は不思議で仕方ない。少なくともクトゥルフ神話TRPG(の旧版である「クトゥルフの呼び声TRPG」)が登場した頃、これほどの人気は予想し得なかった。

クトゥルフ神話TRPGは、古いシステムである。
最初に米国で発売されたのは1983年、日本語版の発売は1986年。もう30年以上も前の設計だ。
現在の版は2004年のものだが、これでさえ15年前だし、そもそも30年前のそれとシステムはほとんど変わっていない。
もちろん「古いから悪い」というわけではないのだが、「進化していない」のは確かだ。他のシステムは、30年間のうちに様々な試みを取り入れ、新たな魅力を蓄えてきた。たとえばゲームマスタの負担を軽くして遊びやすくしたり、キャラに予め行動指針を与えておくことでプレイヤーが何をしてよいかわからず戸惑うことを防いだり、世界設定やジャンルを増やしてゲームの幅を拡げたり。
クトゥルフ神話TRPGにそうした新たな工夫はない。それどころか、今となっては固有の特徴、たとえば「正気度および狂気」のルールやクトゥルフ神話世界などについても他のゲームに取り入れられ、より進化し洗練されており、そうして見るとクトゥルフ神話TRPGには「これといって売りがない」ように思えるのだ。

いや別に新しかろうが古かろうが知ったことではなく、やりたい人がやりたいシステムを遊べば良いのではある。別に皆がクトゥルフ神話TRPGを遊んでいる状況にケチを付ける気はさらさらない(まあ業界的都合として特定タイトル以外への拡がりがあった方が嬉しいとかいう話はあるにせよ)。

ただ、どうにも「クトゥルフ神話TRPGでなければならない」理由が見えてこないというか、「人気になるべくしてなった感じがしない」ので落ち着かない。
というわけで「なぜクトゥルフ神話TRPGはこんなにも人気になったのか」を調べてみよう、というエントリである。

いつから人気になったのか

人気の要因を探るために、まずは人気が沸騰した時期を確認しよう。
ascii.jp
これは2014年時点での、ニコ動のTRPGジャンルに於ける動きをまとめた記事である。グラフを見ると、2012年初頭から急激にクトゥルフ神話TRPGが立ち上がっているのが伺える。この時期に何があったのだろうか。

ニコ動だけの現象ではない、ということを確認する意味も込めて、全体的な動きを確認してみよう。
TRPGの人気度を精確に測ることは難しいが、「クトゥルフ神話TRPG」に関して言えば言葉からある程度の推測が可能である。何故ならば、Cthulfuという単語の日本語表記が異なるからだ。
文学方面では概ね「クトゥルー」、TRPGでは「クトゥルフ」が使われているので、クトゥルフの語が使用される頻度を見ればTRPGの流行時期がだいたい解る、はずだ。
Googleトレンドで「クトゥルー」と「クトゥルフ」を比較してみると、当初ほぼ拮抗していたものが2008年末頃から若干の差が見えはじめ、2012年4月の大きなピークで引き離されたことが伺える。その後は2014年10月から上昇基調となり2015年10月にふたたび大きなピークを迎え、その後下降基調になったかと思えば2017年12月にまたピークを生じている。

では、これらのピークが何によって生じたのか、原因を探ってみよう。

前述の通り、クトゥルフ神話TRPG自体の発売は2004年。この時点では差がない、ということは特段盛り上がっていなかったと判断できる。

クトゥルフ神話 TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

クトゥルフ神話 TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

2008年には神格・神話生物大全「マレウス・モンストロルム」が刊行される。これが2008年からクトゥルフ優勢の原因……かどうかはわからない。
クトゥルフ神話TRPG マレウス・モンストロルム (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

クトゥルフ神話TRPG マレウス・モンストロルム (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

更に2012年初頭には現代社サプリメントクトゥルフ2010」が発売、これによってクトゥルフTRPGが一気に遊びやすくなり人気大爆発──なわけがない。それなら旧版時代の現代社サプリメントクトゥルフ・ナウ」の頃から大人気だったはずだ。
クトゥルフ神話TRPG クトゥルフ2010 (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

クトゥルフ神話TRPG クトゥルフ2010 (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

再びニコニコ動画に視線を戻すと、このピーク以前にも何度かクトゥルフTRPG隆盛に繋がる流れが生じている。
まずは2008年のiM@STRPG動画「アイドルたちとクトゥルフ神話の世界を楽しもう!」シリーズ。
www.nicovideo.jp
ただし冒頭に挙げた記事にグラフを見ても、iM@S系はTRPG動画そのものの隆盛を牽引した立役者ではあったものの特定タイトルと結び付いてはおらず、この時点ではクトゥルフTRPGの流れを作ったとは言えない。
次に2011年3月、「ゆっくり達のクトゥルフの呼び声」シリーズ。
www.nicovideo.jp
「ゆっくり」は(少なくとも2014年までは)明らかにクトゥルフ神話TRPGとほぼシンクロしており、どういうわけかクトゥルフ=ゆっくりという図式が出来上がっていたらしいことが伺える。
もっとも、「ゆっくり」自体は2008年のSoftalk流行によって成立したキャラクター・アーキタイプであり、それ自体がクトゥルフを牽引したとは言えまい。むしろ、Googleトレンドで見る「ゆっくり」自体の言及頻度は(この言葉自体がごく一般的な語であるためにキャラクターとしての「ゆっくり」のみを抽出するのは困難だが)初出時のピークから2011年末頃までは下降基調であり、それが2012年の「クトゥルフ」のピークと共に上昇に転じているので、(関連性は不明なものの)「ゆっくりがクトゥルフを牽引した」よりはむしろ「クトゥルフによってゆっくりが牽引された」ようにも思われる。
すると、「これらの動画がクトゥルフ神話TRPGの人気を作った」わけでもなさそうだ。

結局この界隈に於いて2012年のピークがもたらされた原因は不明なままであったが、改めてTRPGおよびニコ動から目を離すと、どうやら原因らしきものが見えてくる:ピークの立ち上がり始める2012年初頭に発表されピーク形成の4月より放映開始されたアニメ、「這いよれ!ニャル子さん」だ。
www.tv-tokyo.co.jp
注意すべきは、この作品にはクトゥルー/クトゥルフは登場せず、従って直接的言及は見られないということ。にも関わらず鋭いピークの立ち上がり時期は本作こそが「クトゥルフ」言及数増大の原因であることを強く示唆しており、またニコ動に於けるクトゥルフ神話TRPGの急激な伸びもこの時期と完全に一致している。
つまり、どうやらニャル子さんの放映に伴うクトゥルー神話の認知上昇が、アニメと親和性の高いゲームジャンルから情報がもたらされたことで「クトゥルー」ではなく「クトゥルフ」を定着させ、また同時に主要情報源としてのTRPGに注目を集め、あるいは動画勢が知名度の上昇を背景に動画を量産する体制に入り、これが現代TRPG界でクトゥルフ神話TRPG一強という状況を生み出したのではないかと推測される。

なお2015年と2017年のピークはどうやら、モンスター・ストライク2周年で新キャラにクトゥルフが登場した時と、Fate/Grand Orderの新シナリオ「禁忌降臨庭園セイレム」が公開された時であるようだ。

なぜ人気は定着したのか

アニメ自体は2012〜2013年、OVAまで含めても2015年。また原作も2014年で完結しており、新たな盛り上がりを呼ぶ余地はない。にも関わらずクトゥルフ神話TRPGの人気は衰えない。
「アニメが人気を牽引した」のは良いとしても、それが放送終了後まで継続した、どころか現在でもなお盛り上がりを強めているのは何故だろうか。

これに関しては恐らく、(身も蓋もないが)「人気だから人気」なのだろうと考えられる。
ネコぶんこ「テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームという趣味の縮小」という米国のTRPG業界分析記事があるが、この中でTRPGの価値を「ネットワーク性」、つまりは"君がゲームをプレイできるかどうかは、君が所属する社会的な繋がりのネットワークに依存する"と説明している。「人気作ほど遊べる機会が多く、遊べる機会が多いものほど買う価値があり、皆が買うものほどよく遊ばれる」傾向がある、と言い替えても良い。
また、これらはリプレイ動画に対しても言えることだ。どうせ投稿するなら閲覧して欲しいし、ならば人気ジャンルを狙った方が良い。同じジャンルにたくさんの動画があれば目にする機会は増え、それを入口に入ってくるプレイヤーはまずそのシステムを遊びたがるだろう。人気のポジティブ・フィードバック。

新たなTRPGプレイヤー層の遊び方と広がり

クトゥルフ神話TRPGの人気爆発以降にTRPGに入ってきた新しいプレイヤーに話を聞いていると、どうもオールドプレイヤーとは少し違った遊び方が見えてくる。

たとえばニコ動のTRPG動画をざっと見ると、「知名度の高いキャラにプレイヤーを仮託した」リプレイ(あるいはリプレイ風)動画がいくつも出てくるが、2011年頃まではTHE IDOLM@STERのキャラを流用した「卓M@S」シリーズや東方系など、主に女性キャラものが中心となっていた。これらキャラのファン層は主に男性で、従ってこの当時のユーザ層には男性が多かったものと考えられる。
しかし2012年からは黒子のバスケ、また近年ではおそ松さん刀剣乱舞など、女性に人気の作品が大きく盛り上がってきている。これは明らかに、TRPG界隈への女性プレイヤーの流入の証拠と言えるだろう。
かつてのTRPG界隈はかなり男女差著しく、少なくともコンベンションなど公的な場ではおよそ9:1ぐらいの比率だったと認識している。当時から「潜在的にはもっと女性がいるはず」と言われてはいたものの、身内のみで遊んでいるのか観測範囲に出てこない、という印象があった。
しかし現在の勢いを見るに、男女同程度──どころか男女比逆転しているのではと思わせるほどの勢いである。

そして、その結果としてTRPGに求められる遊び方にも変化が生じているようだ。キーワードは「なりきり」と「ウチの子再現」である。
「なりきり」とは要するに、オリジナルではなく既存作品に登場するキャラをPCとして作成し、そのキャラを演じることに重きを置くスタイルだ。
昔からある遊び方のひとつだが、「同卓の参加者全員が元作品の知識を有し、キャラを担当する形式に合意する」環境下でないと摩擦を生じやすく、従来はあまりメジャーな遊び方にはならなかった。これは、原作付きTRPGが定着しなかったことなどからも明らかだろう。
ところがオンラインセッション時代にあっては「同じ作品のファンで繋がる」ことが増えたためか、なりきりがスムーズに受け入れられる環境が整ってきた。あるいは逆に、「なりきりチャット」などの文化圏にTRPGが輸入されていった、とも言えるかも知れない。

「ウチの子再現」の方は、主に同人界隈を中心とした遊び方である。
仲間内で画や漫画、あるいは文章などで発表したオリジナルキャラである「ウチの子」を、親しい間柄の人が(あるいはキャラを気に入った人たちが)「描かせてもらう/描いてもらう」といった交流形態。その延長線上に、「ウチの子をPCとして登場させてTRPGを遊ぶ」という形式がある。

なりきりにせよウチの子再現にせよ、ゲームよりも先にまず完成されたキャラ設定があり、それをTRPGのシステムに応じたフォーマットに流し込む遊び方だ。ここで重要になるのはシステムや世界設定の魅力などではなく「どの程度のキャラ再現性を有するか」であり、むしろ独自の個性は邪魔とさえ言える。
この部分に、現代社会のごく普通の人を幅広く扱えるように作られたクトゥルフ神話TRPGはうまく嵌まったのだろうと思う。常軌を逸した特殊能力などはなく、しかしオカルト的技能や戦闘技術などのちょっとしたアクセントは盛り込むことができ、シンプルでわかりやすい。その上で「クトゥルフの神格/神話生物」という使いやすいフックがあり、正気度ロールというアクシデント機能だけでハプニングの面白さが演出できる、癖がなく手軽に遊べる身内向けのゲーム。
冒頭にて「クトゥルフ神話TRPGでなければならない理由が見えてこない」と書いたが、むしろ「強い理由がないからこそ、クトゥルフ神話TRPGが最適だった」のだ。